自己肯定感が低い人は、じつは自分の運命にあらがっているのだということにまず気づいてほしい。
毒親が嫌だとか、いま勤めている会社が肌に合わないというのは、じつは毒親それ自体が問題なのではありません。会社それ自体が問題なのでもありません。
あなたが「悪い血」を持って生まれてきたそのことが、じつは原因なのです。
このことに最初に気づいたのは、デンマークの哲学者キルケゴールです。その死後すぐにフロイトが生まれ、次にフランスの精神分析家の大家であるラカンが生まれます。ラカンはキルケゴールのその考えをよく研究し、発展させました。
ラカンによると、運命というのは祖父母から受け継いでいるものです。性格は2世代前のそれを引き継ぐと、精神分析家のラカンは明らかにしました。今から50年ほど前のことです。
つまり、あなたの身に降りかかる不幸というのは、あなたが引き継いだ「悪い血」が原因でなのであり、あなたの選択が間違っていたわけではないということ。
あなたはその時々において精一杯やってきました。できるだけ自分に正直に、誠実に生きるよう頑張ってきました。
あなたはとても立派です。
しかし、あなたの引き継いだ血がよくない。
わたしで言えば、祖父は貧しい分家の出自であり、祖父は戦後たいへんな苦労をしたそうです。貧しさに。人脈のなさに。家族の血の薄さに。
このことはどうすることもできません。遺伝というのは顔の形や身長や歯並びと同じように、私たちは「絶対に」選択できないからです。
つまり自己肯定感が低い人というのは、繰り返しになりますが、自分の運命を嘆いている、あるいは運命に抗おうとして絶えず負け続けている人です。
さて、ではどうすれば自己肯定感が上がるのか?
祖父母の成功パターンと失敗パターン、すなわち世代を超えて繰り返されている法則を知り、その法則に抗うかのごとく孤独に悪い血と戦うよりほかありません。
私がやっているオンライン心理スクールでは、そこまで厳しいことは言いませんが、究極的には、どの生徒さんも話はそこにたどり着きます。遺伝より上位になにもないからです。「悪い血」が「行き止まり」です。
しかし、なにも気合いいっぱいにファイティングポーズで運命に抗えということでは決してありません。そんなスクールに生徒など集まらないよねw
法則がすでに分かっているわけですから、その法則に基づいて素直に生きてみる。あるいは、その法則とて絶対ではないわけですから、運命を1mmでも超えようとする日々の具体的な努力が実を結ぶかもしれません。
具体的な目標を設定して、具体的な行動を取っていく――じつは自己肯定感とは、そのようにして上がっていくものです。
毎日すべてのものに感謝しようとか、日記を書こうとか、ダメな自分を受け入れようとか、そんな漠然とした抽象的で馬鹿げた概念的標語を大事にして上がるものでは決してありません。
言葉の世界を越えたところに自己肯定感が上がるきっかけがいくつも転がっているということです。
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みんな間違えてます。正しい自己肯定感の上げ方とは?

感謝なんかするから自己肯定感が上がらないんだ
自己肯定感を上げる方法は、例えばTwitter(X)にすべて載っています。あそこは言葉の世界だから、なんでも載っている。
例えば「日記を書きましょう」「いつも笑顔で!」「感謝しましょう」「感情を書き出してアウトプットしよう」「ポジティブ日記で意識を変えよう」「変化できなくても受け入れよう」「ありのままの自分を受け止めてあげて!」
などなど。
しかし、それらをやっても、実際に自己肯定感が上がることはまずありません。
上がったつもりになって、すなわち「いい人」のつもりになって、いつも気持ちの悪い笑顔をしている人はいます。そういう人は重要な感情のいくつかを置き去りにしてきてしまったので、気持ち悪いのです。
例えば、「いつも笑顔で」を実践しているうちに怒りの感情を忘れてしまった人。人間は怒りたいときに怒るのが普通ですが、24時間365日笑顔で「いい人」を通そうと思えば、怒るわけにいかないので、怒りの感情がどこかに消えてしまいます。
すると、とても気持ちの悪い人になってしまうのです。
さて、ネットにあがってる自己肯定感の上げ方を実践しても、なぜ真に自己肯定感が上がらないのか?
真に自己肯定感が上がるというのは、言葉の世界を一旦離れるから上がるからです。
〇〇すべき、という標語的考えをいったん離れて、自分の思うように生きることによって、それまで忘れていたことが思い出される。だから自己肯定感が上がるのです。
心というのは、そのようなメカニズムになっています。
しかし、そのことを指摘する専門家はいません。科学の心理学をやってる精神科医たちは相変わらず、科学的データという枠の中で患者と向きあいます。すなわち、言葉と数字の世界の中で、感情と向き合います。自己啓発が大好きな人も言葉の世界に戯れています。
それでは真に自己肯定感なんて上がるはずがありません。
データとして上がってこない部分が病んでいるから自己肯定感が低いのだから。
しかしアメリカ由来の心理学が大好きな日本の精神学界にそう言っても馬耳東風。自己啓発大好き人間は言葉に酔いしれる自分が好きだから暖簾に腕押し。
現代社会は言葉と数字の洪水です。その洪水を無意識のうちに受け止めているのが私たちです。すなわち、気づかないうちに言葉と数字の世界にしがみついて生きているのが私たちです。
わかりやすい例を出すなら、「あなたはなぜそれをしたのですか?」と問われて、「なんかわかんないけど、なんか直感的にしました」では済まされない世界に住んでいます。
そのことを私たち全員が知ってるから、私たちはすべての行為に意味を見出そうとします。その意味を他者に納得した理解してもらおうと思えば、数値的に説明できた方がいい。だからデータに頼ります。データにならない気持ちを惜しげもなく捨て去ります。
そうこうしているうちに、自己肯定感がどんどん下がっていくのです。
じつは、数字と言葉から意識的に自分を解放することによってのみ自己肯定感は上がるのです。

すごい言語化 ~なにを言語化すれば自己肯定感が上がるのか~
ネットの世界は言葉の世界なので、今や自己肯定感を上げる方法のすべてがネットに掲載されています。
局所的にいうなら、ツイッターXには自己肯定感を上げる方法のすべてが載っており、それを実践すれば自己肯定感が上がります。
が、まあ、ひとりで実践できないことが多いので、皆さんなかなか自己肯定感が上がらないですよね。
さて、自己肯定感を上げる方法の1つに言語化があります。
モヤモヤを言語化すれば自己肯定感が上がる、というわけで、多くの人が「言語化しよう」と言いますが、いったいなにを言語化すればいいのでしょうか?
今日の出来事?
あいつのことを恨んでやるみたいなこと?
それで自己肯定感が上がる?
そんなバカな話はありません。
なにを言語化すれば自己肯定感が上がるのかといえば、心の中にある永遠と呼ばれている領域に潜んでいるものを言語化してあげればいいのです。
永遠はキルケゴール用語です。
芥川龍之介はそれを「ただぼんやりとした不安」と言いました。
夏目漱石は「不可思議な恐ろしい力」と形容しました。
ユーミンは「ひこうき雲」のなかで「空」と呼びました。
つまり、私たちの意思を超えている心の働きを言語化してあげるのです。
例えば、好きな人に好きと言いたい。こう思うのは意志の力です。
しかし、自己肯定感が低い人は好きと言いたいのに、今日も言えなかった、明日も言えなかった、明後日も言えなかった、という感じで、どうしても言えません。
その言えなさが永遠であり、ぼんやりした不安であり、不可思議な恐ろしい力です。
それを言語化してあげると自己肯定感が上がるのです。
ちなみに、精神分析家であるラカンは、芥川が「ただぼんやりとした不安」と形容したものは、実は法則性を持っていると洞察しました。
これはラカンの慧眼といってもいいと思います。
それは反復強迫と呼ばれています。
私たちの身に降りかかる不幸な出来事は法則性を持っているということです。
例えば、新卒で入った会社がブラック企業だった。やっとの思いでブラック企業退職し、次の会社に就職してもまたブラック企業だった。 3度目に就職した会社はホワイトだったが、異動してきた上司がブラック野郎だった。
ブラックから抜け出すことのできない人生というのは「運が悪い」を通り越して、実はその人がブラックな上司(すなわち病んでいる上司)と巡り合ってしまう何らかの法則性を持っているのです。
ブラックに遭遇したことを言語化することをとおして、その法則性を洞察する。そのことによって自己肯定感が上がります。
この法則は世代を超えて反復されるともラカンは言います。
すなわち2世代前の人の不幸になる法則や成功法則を、私たちは引き継いでいるのです。要するに、おじいちゃん、おばあちゃんの考え方の癖をまるっと引き継いでいるわけです。
というような感じ。
要するに、夜中に3行日記を書いても自己肯定感は上がらないのです。
正しい先生に正しい方法を教わりつつ言語化しないと、なんの意味もないということです。

自己肯定感とはなにか?高める方法は?
自己肯定感は一般に「ありのままの自分を肯定する感覚」のことと定義されています。(GLOBIS)
しかし、「ありのままの自分」とは何でしょうか?
なんかちょっとさみしくて人肌恋しくなったら「ちょっとセックスしたい」と思ってマッチングアプリでセックスの相手を探す自分が「ありのままの自分」でしょうか。怒りの感情が湧いてきたら「ありのまま」怒りの感情を発露させるのが「ありのまま」なのでしょうか?
困っている人を助けることで「わたし、いい人」という自己認識を持ちたいと思って人を助けた場合、「ありのまま」のあなたは「いい人」なのでしょうか? それとも恣意性にあふれた「ずる賢い人」なのでしょうか。
「ありのままの自分」という「何かが言えてるように聞こえる言葉」がひとり歩きしたことによって、ビジネス系の大学院ですら、その言葉をなんの吟味検討もなく使っています。
自己肯定感を高める方法についても同じです。
先に挙げたビジネス系大学院GLOBISによると、その方法は「不安なことを書き出して今の自分を認めてあげる」「書き出したことに対して、他者目線に立ってアドバイスする」の2つだそうです。
「将来がなんとなく不安」と書いて、その自分を認めてあげる。「うん、将来が不安でもいいよ」と――。かつ「まあなんとかなるっしょ」と「他者目線」で自分で自分に言い聞かす。
マジか?
さて、自己肯定感とは「この自分でもまあいいだろう」と思える気持ちのことをいいます。あるいは「自己肯定感のことなどまったく頭に浮かんでこない状態」のことをいいます。
ではなぜ「この自分でもまあいいか」と思えず、自己肯定感のことが頭をもたげてくるのか?
今のこの自分のことが嫌で、「なりたい自分」になりたいと思っているからです。
では、なりたい自分とはなにか?
会社でトップの営業成績を残す自分か?
会社の人間関係がうまくいっている自分か?
セックスの相手に不自由していない自分か?
自己肯定感のことなど考えることなく、持って生まれたものをすっと表に出して肩の力を抜いて生きている自分が「なりたい自分」でしょう。ちがいますか?
ところで、「この自分」も「なりたい自分」も共に、なんらか言語化できないもの「X」が形づくっています。
そのXのことを夏目漱石は『こころ』のなかで「不可思議な恐ろしい力」と表現しました。梶井基次郎は「檸檬」のなかで「えたいの知れない不吉な塊」と表現しました。キルケゴールは「永遠」と、フロイトは「死の欲動」と、ラカンは「反復強迫」といいました。
わたしたちは「意識がすべて」という世界に住んでいると勘違いしているので、ビジネス系大学院の言説に代表されるように、意識を変えれば(調教すれば)自己肯定感が上がると思い込んでいます。
しかし、「不可思議な恐ろしい力」「えたいの知れない不吉な塊」「永遠」「死の欲動」「反復強迫」は、意思してもそれでもなお、湧いて出てくる考えや思いのことです。したがって調教不可能です。
自分の心に巣くう「えたいの知れない不吉な塊」とはなにか? それを言語化した場合、どう表現できるのか?
この問いに取り組むことが、真に自己肯定感を高める方策です。
具体的には、自分の祖父母の生き様を知ることです。「えたいの知れない不吉な魂」は2世代ごとに繰り返されると、ラカンが精神分析において解明しているからです。
つまり、自己肯定感とは意思を超えた存在「X」と、「この自分」との折り合いの良しあしのことなのです。
「なぜかわからないけどさみしい」とき、すなわち自己肯定感が低いとき、そのXがあなたの心のなかで暴走しているから、なんかさみしいのです。
反対に、自己肯定感のことなど気にしていないとき、あなたの心のなかのXは、あなたとの折り合いがいいのです。
意識がすべて、意識を調教すれば自己肯定感は上がる、という言説はただの質の悪い宗教なのです。

自己肯定感を高める考え方とは?
自己肯定感の低さに悩んでいる人のなかには、心療内科で病名とお薬をもらって安心する人がいます。
安心しないまでも、病名にすがる、お薬にすがる、そんな人が多いと聞きます。
何年か前の日本自殺予防学会では、お薬にすがる女子高生が多いことが問題として挙げられていました。
すなわち、心療内科にお薬ほしさに行くも、医者が処方してくれず、困り果ててネットで「それ用のお薬」をググり、ドラッグストアでそれを大量に購入し、缶酎ハイと一緒に飲む。たいていの場合、死ねないが、肝臓に障害が残るので、人工透析が必須の人生になる――。
さて、自己肯定感を高めるために必要な考え方は「なぜ」です。
わたしは不安症だ。ああ、これでわたしの心のモヤモヤの原因がわかってよかった、ではないということです。それでは真に自己肯定感は上がらない。
そうではなくてまず、「なぜわたしは不安症になったのだろう」と考えてみる。
すると、たとえば、毒親育ちだからだとか、学校でいじめられたからだとか、いくつかの答えが即座に浮かぶでしょう。
毒親育ちを例にとるなら、次に「なぜわたしの親は毒親なのだろう」とか「毒親育ちの子のなかにも、自己肯定感が高い子がいるのに、わたしはなぜ低いのだろう」という問いが生まれる。
それら1つ1つの問いに、ゆっくりと時間をかけて答えを与えていく。
これが真に自己肯定感を高める秘策です。
答えの出し方がわからないですか?
大丈夫。
100年以上前から、自己肯定感の低さをめぐって「なぜ」と考えてきた先人はおおぜいいますから、そういう人の書いた本を参考にすればいいです。
たとえばキルケゴール。夏目漱石。芥川龍之介。
現代だと、新海誠監督の「秒速5センチメートル」は、自己肯定感の低さにあえぐ主人公を描いています。
そういった作品を参考に、問いを適切なサイズにして、それに適切な言葉を与えるのです。
問いが適切にできれば、答えは8割がた完成したに等しい。

じつは自己肯定感は性欲と深くつながっている
じつは性欲と自己肯定感は深いところでつながっているので、自己肯定感を高めたければ自分の性欲をどうにかするしかありません。
しかし、それにもかかわらず、性に関する本はたくさん出ていますが性欲に関する本はあまり出ていないので、本稿をきっかけにこのブログでは性欲について真面目に考えてみたいと思います。これまで性欲はとくに倫理とセットで語られてきましたから。つまり非難され、隠されてきましたから。
性欲とは「やりてぇ!」という気持ちのことであり、これは男女問わず持っている人は持っていますね。
ところで、その性欲を満たそうと思えば、セックスをする必要があります。
そのためにはセックスの相手を探し、相手に見初められる必要があります。
たとえば、マッチングアプリを例にとるなら、マッチングアプリでコミュニケーションし、相手をその気にさせ、実際にことを起こす、という「高難度の技」が必要。
つまり社会性が必要ですね。
恋愛や結婚など、言わずもがな、社会性がもろに問われる営為でしょう。
つまり、性欲と社会性というのは、分かちがたく結びついているのです。
自己肯定感の低い人は、いわゆるコミュニケーションが低いので、どうしてもセックスの相手を得るのがむずかしい。
その結果、妄想がどんどん膨らんでいく。
性欲があまり強くなければまだ救いがあるものの、性欲が健全な量ある人や性欲が強い人は、妄想だけがどんどん膨らむ。
それにともなって、自己肯定感がどんどん下がる。なぜなら、四六時中やりたいと渇望していることが、四六時中できないから。彼・彼女の自己肯定感は、つねに「ぼくは・わたしは、やりたいことができないダメなヤツ」という認識に塗り固められてゆく。
やがて、ある男は、電車で偶然見かけた、自己肯定感が高そうでセックスの相手に不自由してなさそうな女子をナイフで刺す。
ある女子は、自暴自棄になって、マッチングアプリでセックスの相手を探す。あるいは、年上の男性との出会いを求めて、会社から帰ったら地元の駅のそばの小さなキャバクラでバイトをはじめる。
どちらの自己肯定感も地に落ちているどころか、マイナスです。
ところで、この場合の自己肯定感とは「言えなさ」のことです。
自己肯定感が高いか普通の人が「ねえ、やろうよ」とすなおに言えるのに対し、自己肯定感が低い人はそれが言えない。その一言を発するまでに必要な人間関係を構築できない。
ともあれ、自己肯定感はじつは、性欲と深くつながっています。
次項は後日書きます。

人生は爆発だ ~岡本太郎と永遠~
どうすれば生きづらさを解消させることができるのか、すなわち永遠と「こうでしかない自分」の折り合いをつけることができるのかについてお話します。
永遠、すなわち心のなかの非言語領域と誠実に向き合い、誤魔化さない。
これが答えです。
永遠に蓋をして見ないようにしても、永遠はふとした瞬間に「こんにちは」と顔を出します。そのことについて、ある人は四六時中悩みます。またある人は夜ベッドに入ったときにそれを思い出してしまい、将来に愁いを感じ、眠れません。
つまり、永遠に蓋をすると生きづらさが生じるのであれば、その反対をすればいい、すなわち永遠と誠実に向き合うというのが解決法です(よね?)。
ところで、岡本太郎さんは次のように言います。
――ほんとうの生き方とは、空想と現実のからみあいのなかで生きること。――
『自分の運命に楯を突け』青春出版社(2016)
この場合の空想とは永遠のことです。現実とはべき論です。つまり、永遠とべき論の葛藤のなかで生きることによって、「ほんとうに生きている」と言えると岡本さんは言っています。葛藤状態のまま思いっきり生きることで「なんかさみしい」を超えろと言っています。そうすることによって永遠を言語化できるようになる(だから彼は本を書いている)。そんな岡本さんの声が聞こえてこないでしょうか?
あるいは岡本さんは以下のことも言っています。
――(現実の生活に)順応しながら、一方では孤独に己をつらぬく。(…)相対的と絶対的の矛盾のなかに己れを生かしていくのがほんとうの人間だよ。(…)その孤独感を(…)ごまかしてしまっているところにむなしさがある。(…)ごまかさないで、積極的に孤独をつらぬけば、人間的にひらいて、みんなと一体になることができる。ほんとうの孤独は自・即・他なんだ。――
『自分の運命に楯を突け』青春出版社(2016)
相対的とはべき論のことです。絶対的とは永遠のことです。永遠はその人固有のものだからです。それらの矛盾、すなわち葛藤から逃げる、すなわち永遠に蓋をして見ないようにするところに人生のむなしさ(なんかさみしい)があると岡本さんは言います。
また、葛藤や永遠をごまかさないでそれらと向き合ったとき、「自分=他人」と思えて、人生が無限大に広がると言っています。
なんかさみしい気持ちに四六時中支配されていると、心が重たく、生きづらく、つい心療内科でお薬でも、と考える人もいらっしゃるでしょう。気軽に病院に行けない高校生のなかには、市販の風邪薬などに大量に服薬することで楽になろうとする人もいます(オーバードーズ)。
それはそれで1つの解決法なのかもしれません。
しかし薬とはあくまでも対処療法です。風邪をひいて高熱だからとりあえず解熱剤を飲むのと同じです。つまり根本解決には至りません。だから薬は中毒性を帯びていると言われるのです。
根本原因は、永遠をごまかしているところにあります。自分の心の中の非言語領域と誠実に向き合うことでのみ、わたしたちは真に納得のいく生き様を手にすることができます。
※参考
キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020

ビートたけし(北野武)さんと永遠
ビートたけしさんは30代のとき『KID RETURN』(太田出版・1986)という詩集を出しています。一見して精神論や純愛について書いているかのような詩が複数収録されていますが、じつはそれらは、みずからの心に宿る永遠をようやっと言語化できるようになったたけしさんが、素手で永遠と格闘した結果を書いたとも解釈できます。
実際に、「なんらかに悩むことに疲れて自殺する人がいるけれど、俺はそうはしない。俺はもっともっと悩むんだ、そしたらやがて弾ける時が訪れる」というようなことをたけしさんは書いています。「そのように悩むことは正しいことだ」とも書いています。この場合の悩むとは、まだ言語化できないみずからの永遠というモヤモヤと向き合うことです。
誰しも若い頃、「どう生きるべきか」「自分の夢とどう折り合いをつけるべきか」といった悩み方をしたことがあると思います。たけしさんも20代から30代前半において、おそらくそういった悩みを抱きました。
しかし、多くの人が「髪を切って就職した」のに対し、彼はモヤモヤから目をそらすことなく、真正面からそれと格闘しました。その結果、詩集の中の言葉を借りるなら「ビッグバン」のようになんらかが自己の内部で弾け、「開眼」したのでしょう。永遠をめぐるモヤモヤを言語化し得たのでしょう。
では、たけしさんの永遠とはいかなるものか? この詩集と、その後の映画監督(北野武)としての彼の作品から察するに、それはたとえば、この世を超え出た純愛なのかもしれません(たとえば『あの夏、一番静かな海』や『HANA-BI』)。
あるいは、悪者が負け、倫理観をたしかにもつ善人が勝つ「理想的な世界のありかた」なのかもしれません(たとえば『座頭市』)。あるいは、人間界にいる限り永遠には肉薄できないという諦観それ自体が彼にとっての永遠かもしれません(たとえば『ソナチネ』や『アキレスと亀』)。
作品ごとに永遠の提示のしかたが違うので、「これがたけしさんの永遠です」と明示するのはむずかしい。しかし、ほぼすべての作品に彼の死生観が表現されている以上、「どう生きるか」「どう死ぬか」といった「永遠問題」に、たけしさんは浅草の下積み時代からずっと、逃げることなく真正面から取り組んできたはずだ、とは言えるのではないでしょうか。
彼はほかの多くの人のように永遠問題と格闘するのを早々に止めなかった。ごまかさなかった。誠実に生きた。大学卒業と同時に髪を切り就職する人たちに違和を感じ続けた。指をさされ、せせら笑われても、みずからの永遠に向き合い続けた。今日食べるお金がなくても、芸人を辞めなかった。みずからの永遠問題にどこまでも誠実に向き合い続けた。
心に迷いが生じた結果、「とりあえず自活するために生活費を稼ごう」と思ってタクシー運転手になっても、「永遠問題から逃げているだけだ」と思い直し、というか、心がおのずと永遠問題と素手で格闘することを要求し、結局芸人を続けた。「続けたい」ではなく、彼の永遠がそうすることを彼に要求し、彼はそれに従うしかなかった。
その結果、先に挙げた詩集が生まれ、その後数々の映画が生まれました。金儲けが忙しいからとか、永遠と対峙する自分を友だちや異性に見られるのが恥ずかしいからといった「不真面目な」理由で永遠をどこかに置き去りにすることはなかったのです。
※参考
キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020

愛着障害の解消法とは
愛着障害は科学的には以下のように説明されているそうです。
――愛着障害とは、養育者との愛着が何らかの理由で形成されず、子供の情緒や対人関係に問題が生じる状態です。主に虐待や養育者との離別が原因で、母親を代表とする養育者と子供との間に愛着がうまく芽生えないことによって起こります。乳幼児期に養育者ときちんと愛着を築くことが出来ないと、「過度に人を恐れる」または「誰に対してもなれなれしい」といった症状が現れることがあります。――(引用元:マドレクリニック)
ざっくり言うと、なんかさみしい気持ちや、自己肯定感の低さ、自分軸のなさなどの原因を親に求める考え方が愛着障害です。
たしかに母親の愛情が薄いと子は生き惑いますよね。母親が「勉強しろ」と子に口うるさく言い続けると、子は委縮します。あるいは学校で誰かをいじめるようになります。あるいは万引きします。これらは誰にとっても既知でしょう。
しかし、親の愛情が薄いと子は生き惑うという現象には、じつは本質が隠されています。
ところで、親子はじつは凸凹の関係です。親が凸なら子は凹。あるいは白黒とたとえてもいい。親が黒なら子は白。
では、白い子と似た性質を持っている人は誰なのか?
祖父母です。
性格は生物学ではないので「性格が隔世遺伝する」という言い方は適切ではありません。しかし、あえてわかりやすく言うなら、性格は隔世遺伝なのです。
つまり、子はおじいちゃん・おばあちゃんの性格を引いている。
親は、子から見たひいおじいちゃん・ひいおばあちゃんの性格を引いているのです。
つまり愛着障害は、直接的には親の養育態度が原因ですが、しかしより本質的には、「そういう血を受け継いだ」すなわち愛着障害になる血をあなたはもともと持っていたと言えるのです。
ではどうすればいいのか?
あなたと似ているおじいちゃん・おばあちゃんも愛着障害に苦しんだかもしれません。そのとき、おじいちゃん・おばあちゃんはどう対処しましたか? どんな生き様でしたか?
誰にとってもおじいちゃん・おばあちゃんは4人います。
4人の生き様を知る、すなわちあなたのルーツを知ることで、少しずつ愛着障害にあえぐ心が癒えてきます。
わかる範囲でいいので、ぜひおじいちゃん・おばあちゃんの生き様を調べてみてはいかがでしょうか。
ちなみに、あなたの親も、その親(あなたから見たひいおじいちゃん・ひいおばあちゃん)からの愛情不足で愛着障害に悩まされている(いた)のかもしれません。性格は「隔世遺伝」しますからね。
とすれば、親を責めるのはお門違いではないか、と思いませんか?
むろん、親から「実害」を受け、親を憎んでいるうちはそうは思えないかもしれない。
しかし時がすぎ、波が穏やかになり、日が差してきとき、あなたはきっと、胸をかきむしるような親の葛藤に思いを馳せるでしょう。
そのときあなたはどうしますか?
※参考
キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020

境界性パーソナリティ障害B群の改善法とは?
境界性パーソナリティ障害B群は、「演技的、感情的、または移り気な様子を特徴とする」のだそうです。たとえば、「自分の利益を得るための他者の操作」であったり、「人の注意を惹きたいという欲求」であったり、「基礎にある脆弱な自尊心および明白な誇大性の調節不全」などの特徴があるとのこと。(参考:MDSマニュアル)
身近な例を挙げるなら、たとえば無理していい子を演じている女子。親や学校の先生の前では「優等生」を演じるも、放課後は彼氏の家でせっせとセックスに励む、みたいな。
高学歴のキャバ嬢に、この境界性パーソナリティ障害B群が散見されます。もちろん、男性と酒を飲んで騒ぐことが好きとか、学費や生活費を工面するために(イヤイヤ)キャバ嬢をやっている人もいますが、なかには「父性」を求めるかのごとく、年上の客と出会い、会話し、ねんごろな関係になることを望んでいる人もいます。
そういう人は、端的に、親が厳しかった(厳しい)。「ケーキ屋さんになりたい」と子が言っても「そんなんでどうやって生きていくの! ちゃんと勉強して慶応大学に入りなさい!」と言うような親。
そういう親子関係に納得できなかった必然の結果として、子は病みます。なんかさみしいとの思いが心に膨満します。
具体的には、相手の顔色をうかがう子になります。また、平気でウソをつく子になります。親や学校の先生の前では「いい子」を演じて(この「演じる」ができるのが境界性パーソナリティ障害B群の特徴でもある)、放課後は「なんかさみしい」を癒すために早熟な男子を彼氏としてせっせとセックスします。
そして大学に進学したら、親に「居酒屋でバイトしている」とウソをついてキャバクラで父性を求めます。依って立つ場所がないと心が死んでしまいそうなのだから、当然といえば当然の結果です。
さて、境界性パーソナリティ障害B群の本質はなにか?
親が子の永遠を踏み潰したことです。
永遠、すなわち「本当はこうありたい・こう生きたい」という子の誠実かつ切実な気持ちを親が踏みにじった。しかも「善意」として。すなわち親は「よかれ」と思って、「子のため」と思って「勉強しろ」と言った。だから親には子がなぜ病んでいるのか、なぜ親にウソをついてキャバクラバイトをするのかが理解できない。
子の永遠を潰した親は、子に一生恨まれます。介護なんてしてくれません。最悪、テレビのニュースで報じられるように子に撲殺されます。あるいは刺殺。
解決法は2つしかありません。
1つは親から逃げること。物理的に引っ越しをする。あるいは、先に挙げたキャバ嬢のように、親に代わる庇護者のような存在を見つける。
2つ目。これは、もし今できれば、という条件がつきますが、もし今できるなら、親の事情を想像してみる。
つまり、親は「良かれ」と思って子の永遠を踏みにじったわけですから、そこにはなんらかの親の事情があるはずです。例えば、親自身が低学歴でものすごく生きていくのにしんどい思いをしている(いた)というような事情があるかもしれません。あるいは、親の兄弟(例えば母親の姉とか、父親の兄など)の影響を親は受けているかもしれません。幼い頃、よくできる姉や兄と比較されて育てられた結果、親はあなたの永遠を踏みにじるかのごとく「勉強しろ」と口うるさく言った――そんな可能性があるかもしれません。
ともあれ、境界性パーソナリティ障害B群の本質は永遠の扱い方にあります。
※参考
キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020

不安症の本当の原因と解決法とは?
不安症とは、原因が明確ではない不安が、大人は6ヶ月、子どもは4週間続いている状態を指すそうです。その治療法はたとえば、かの有名な認知行動療法だそうです。
つまり、不安症の人は「起こりえないこと」を心配し、その心配がきっかけとなってどんどん「沼」へと入っていくのだから、心配ごとが心に芽生えたとき、「沼」の方ではなくポジティブな方に考えるように考え方を「矯正」する。これが一般に言われている不安症の原因と治療だそうです。(参考:こころの情報サイト)
さて、心理哲学にみる不安症の原因とは何でしょうか?
答えは1つ、永遠が自動的に沸き立たせる不安の扱い方を知らない、です。
夏目漱石風に言うなら、「不可思議な恐ろしい力」に心を支配されると「私はこのまま生きていていいのかな」「なんか死にたいな」「あの人が言っていたあの件、大丈夫かな。わたしにそれを完遂する資格はあるのかな」などと、湯水のごとく不安が押し寄せます。それが科学の心理学がいうところの不安症です。なんのことはない、夏目漱石が『こころ』に書いた「先生」は不安症なのです。もっと言うなら、漱石自身が不安症だったと思われる。
ところで、キルケゴールという哲学者は、不安とは無だといいます。不安という「可能性」は無だと――。
キルケゴールはかなりのお金を使ってみずからの可能性を試したと、その日記などを読みながらわたしは思います。たとえば若いころ、今でいうキャバクラのような店に行き、お気に入りの女子に好かれる可能性を試した。なぜなら、自分のように暗い性格と正反対の性格の女子に好かれることで、自分も明るく元気に生きたいと渇望していたから。
しかし、その可能性が実現されることは終生ありませんでした。つまりキルケゴールにとって、可能性は文字通り無だったのです。
このことはキルケゴールに、実存(今生きているわたしたち)は永遠という完全に言語できない何者かに操られているという思想を生み出させました。
つまり、何を心配しようとしなかろうと、私たちはなんらか大きな運命の波にただ乗っているだけであり、そこで必死にオールを漕いでも暖簾に腕押し、なんの意味もないという「実存思想」を生み出したのです。
したがって、不安症の解決法は1つ。
自分がどのような運命の波に乗っているのかを知ることです。
以前述べたとおり、わたしたちは祖父母の性格を引き継いでいるのですから、自分がどのような運命の波に乗っているのかを知るというのは、すなわち自分のルーツを知ることです。
認知を「矯正」しても不安症はきっと根治しません。永遠が非言語である以上、根治は無理です。認知行動療法というのは言葉を使う治療だからです。
心理哲学は、永遠を知る、すなわち自分のルーツを知ることで不安症は改善されると主張します。
※参考
キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020

買物依存症の本当の原因と解決法
――買い物をすると気分が高揚し、一時的に嫌なことが忘れられるので、繰り返し買い物をしてしまい、(…やがて衝動買いの)欲求が抑えられないため、借金を繰り返し、自己破産に至るケースもあります。買った後罪悪感にさいなまれ、自己嫌悪に陥ります。――
(引用:大石クリニック)
「一時的に嫌なことが忘れられる」の「嫌なこと」の多くは「この自分」です。むろん、直接的には、たとえば会社の上司が嫌、夫のことが嫌、子育てが嫌、ということでしょう。
しかし、それらをよく見たとき、嫌な上司とかかわっているこの自分が嫌、あんな夫に支配されているこの自分が嫌、いきおいで子を産んでしまったこの自分が嫌ということでしょう。そうですよね?
この自分が嫌。
この気持ちをキルケゴールという哲学者は、端的に、絶望と呼びました。この自分が嫌で、この自分から逃れたいと思う気持ち、すなわち「なりたい自分」になろうとする気持ち、それを絶望と呼んだのです。絶望とは「なんかさみしい」気持ちのこと。
つまり、買物依存症とは端的に「なんかさみしい」気持ちが誘発
させるふるまいのことです。
その原因を、科学の心理学はドーパミンに求めています。
――過度な買い物が習慣化すればするほどドーパミンが分泌される頻度も増え、快楽や喜びを感じやすくなります。(しかしドーパミンは)すぐに枯渇します。すると、それまでの強烈な快楽が得られなくなるためにさらに買い物行動は促進され、ドーパミンは枯渇し、むしろ焦りや不安、退屈感といった不快体験が増えていく…という悪循環に陥ります。このレベルにまで達すると脳は快楽だけを求めて体に指示を出すため、簡単には抗えません。このような経過を経て、「やってはいけないとわかっているんだけどやめられない」という依存が形成されます。――
なるほど、と膝を打つ言説ですね。
他方で、心理哲学は買物依存症の原因を永遠、すなわち心の中の非言語領域に求めます。「なんかさみしい」の根本原因が永遠だからです。つまり「この自分」を好きになれば買物依存症は治るということです。
では、どうすれば「この(嫌な)自分」を好きになれるのでしょうか。
これにはいくつかの答えがあるように思います。
まず、今の仕事が嫌であるゆえに「この自分」が嫌いな人は、即座にやりたい仕事に転職する。資格が必要なのであれば即座に資格取得のための勉強を開始する。転職したり勉強したりするにあたり生活に困るのであれば、生活のサイズを小さくする。たとえば、生活費25万円で暮らしているのなら15万円で暮らせるように生活自体を調整する。こういう現実的な方法があるのではないでしょうか。
より本質的な解決法、すなわち「この自分」を好きになる方法は以下の2つ。
1つは、永遠という非言語領域をできるだけ言語化してあげる。
これは小説やうたの歌詞、映画などを手掛かりにするといいでしょう。そこに出てくる主人公の多くは、みずからの永遠につまずき、それと闘い、人生を勝ちとっているからです。
今1つは、自分のルーツを知ることです。
わたしたちの性格は祖父母譲りだというのは、精神分析の世界における定説だそうです。したがって、祖父母の生き様を知ることがすなわち、私たち自身を知ることになります。自分のルーツがわかれば、嫌な性格を直したいという発想それ自体が消滅します。
買物依存症は「この自分」を好きになることによって改善されます。
ちなみにキルケゴールは、「女」を買う買物依存症だったのではないか、と私は踏んでいます。研究者たちは品よく「彼は若いころ放蕩生活を送っていた」と書いていますが、さまざまなことを総合的に見ると、キルケゴールは「女」を買いあさる買物依存症だったのでは?
ま、彼は裕福なおうちの子でしたから、自己破産することなく、父親が「店のツケ」を支払っていたようですけど。
※参考
キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020

自己肯定感を高める方法を実践しても高まらないのはなぜ?
たとえば、
- 現状を認めることから始める
- 環境を整える
- 音楽で気持ちを切り替えてみる
- 失敗を否定しない
- 日々の言動を肯定的になるように意識する
- 自分の思いや意思も大切にする
現状を認めることができるというのは、「自己肯定感が高い状態」の言い換え表現であって「高める方法」ではない。認められないから悩んでいるからです。
環境を整えると一時的に自己肯定感というかやる気が湧いてくるというのは、科学の心理学も主張するところですが、おそらく多くの人はその手のやる気がほしいわけではなのでは? 宿題をする気が起きない→部屋の掃除をする→自己肯定感が高まり、やる気が湧いてくる、というのは「あり」でしょうけど。
音楽は使えますね。短期的にも長期的にも自己肯定感が上がります。が、音楽は心の非言語領域を言語化するお助けツールなので、音楽をきっかけに出てきた感情を言葉にしてあげる必要があります。
下の3つ、すなわち、失敗を否定しない、日々の言動を肯定的になるように意識する、自分の思いや意思も大切にするについては、こちらも「自己肯定感が高い状態」の言い換え表現であってハウツーではない。
さて、ネットにあるハウツーを実践しても自己肯定感が高くならない理由はなにか?
こたえは明らかでしょう。「自己肯定感が高い」の「ただの言い換え表現」をハウツーと多くの人が思い込んでいるからです。
ぼくが知る限り、30年ほど前からずっと、言い換え表現をハウツーとしている本がたくさんあるので、もうそれが一般化している。
あるいは、私たちは「一見して筋が通ってそうな言い方」を「正しい」と錯覚してしまってそれ以上考えないクセを持っている。
ところで、自己肯定感の低さは、じつはあなたが「根無し草」であることに起因します。
たとえば、第一次世界大戦後のヨーロッパでは、自己肯定感が低い若者が増えたと言われています。
田舎から戦争に駆り出され、戦後都会に残った若者。
親子がバラバラになった若者。
継ぐべき仕事を持たず「職業の自由」を背負った若者(とくに次男以降の人たち)。
自分が「何者であるのか」が、戦争によって見えなくなった。
ゆえに自己肯定感が低くなった。
そうすれば、自分のルーツを知ることで、自己肯定感は高くなると言えます。
ルーツは、ラカンという精神分析家によって「2世代前」とわかっています。
すなわち、祖父母の考え方のクセや、幸せになるパターン、不幸になるパターンが、わたしたちの性格にプログラミングされているのです。
祖父母の生き様を知ることによって、あるいは思い出すことによって、自己肯定感は高くなります。

ひとりで考えているとネガティブになるのはなぜ?
ひとりでいるというのは「社会の目」から遠ざかっているということなので、おのずと「永遠」すなわち心のなかの非言語領域が表に出てきます。
そこは「社会」で活動しているあいだは心の奥に眠っています。それを表に出すと生きづらいという理由で、ひとりでに奥に隠れてしまっている。それがひとりの時間に表面化してくる。だから、ひとりで考えているとネガティブになるのです。
永遠、すなわち心の中の非言語領域は、たとえば、わたしたちの意思とは関係なしにとりとめのないことを考えます。たとえば、ユーミンの「ひこうき雲」のように。
あるいは、「なんか不安」という気持ちを呼び覚まします。ちょうど芥川龍之介が「ただぼんやりした不安」と形容した、その気持ちが湧き出てきます。
それらは自分の意思で表に出てきている感情ではありません。意思はあくまでも「そんなとりとめのない気持ちなど見たくない」といいます。しかし、意思のその思いをよそに「永遠」はどんどん湧き出てきます。
キルケゴールという思想家はそれを葛藤と名付けました。
わたしたちは葛藤のなかに生きるしかない――これがキルケゴールの慧眼の1つです。
わたしたちはつねに、永遠とべき論の葛藤のうちに生きています。「なんか不安」という気持ちと「社会的によく生きるべき」という気持ちの葛藤を生きています。
永遠は「自動的に」湧き出てくる感情であるゆえ、その葛藤はどうすることもできません。その「どうしようもなさ」を夏目漱石は『こころ』のなかで「牢屋」に閉じ込められた気分だと述べました。
そんな苦しい気分をどうすればいいのか?
永遠、すなわち心の非言語領域を、可能な限り言語化してあげることです。永遠という「ブラックボックス」に何が入っているのか、少しずつ言葉で表してあげること。
小説やうたの歌詞は、ブラックボックスを言語化しているから秀逸なのです。
