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なんかさみしいという気持ちは「構造」を知れば消えてゆきます
それでは、なんかさみしいという気持ちは、どのような構造を持っているのでしょうか。
同じ構造を2つの言い方で言い表すことができると私は考えます。
1つは倫理の方面からです。倫理というのは、言葉を持たないものに言葉を与える営為です。なんかさみしいというそれ以上言語化しようのない気持ちに言葉を与える営為、それが倫理です。
なんかさみしいという気持ちは、倫理の方面から構造を捉えて雲散霧消させることができます。そのときに役立つのが、やはりキルケゴールの永遠という概念でしょう。それはキルケゴール哲学を解き明かすための鍵語となる重要な言葉です。自分でもコントロール不可能なほどに崇高なことをなぜか夢想してしまう。反対に、邪悪なことをなぜか夢想してしまう。私に夢想させてしまうその主体のことを、キルケゴールは永遠と名付けました。
そういうものが私たちの心の中に存在している。すなわち、すべてを科学で割り切ることのできないなんらかが、私たちの心の中には存在している。そのことをより具体的に知るだけでも、なんかさみしいという気持ちはかなり解消します。
今ひとつは、例えば、フランスの哲学者であり精神分析医であるジャック・ラカンが提唱する構造です。あるいは、メルロ=ポンティが主張する身体性に依拠する構造です。それらはキルケゴールの永遠概念をややロジカルに表現したものだと私は解釈していますが、かなり現代の私たちの生活に使える概念です。
例えば、間主観性であるとか、反復強迫であるとか、メルロ=ポンティのいう身体性というのは、ややスピリチュアルなニュアンスを帯びるかもしれませんが、しかし、それらに依拠して人生の構造を捉えることが可能です。
いずれにせよ、構造を熟知すれば、なんかさみしいという漠然とした気持ちは消えていきます。ひとりで哲学書を読み解くのが困難であれば、ぜひ人見アカデミーにお越しください。私が簡単に説明いたします。

専門家が明かす「なんか不安」な気持ちを和らげる「誰でもできる」生活習慣「元祖心理学者の提言をもとに」
明日が試験というわけでもないのに、なんか不安。「何が不安なの?」と尋ねられても「なんか」としか言えない。「将来のことが漠然と不安だ」と言えばいいのだろうか……。こういった原因が明確ではない不安について、元祖心理学者であるキルケゴールは<心理学者は、絶望とは何かを知って>いると言います(『死に至る病』)。「なんか不安」と思っている人は実は、自分自身に絶望しているんですよ、その絶望について心理学者は熟知しているんですよ、と彼は言っているのです。ここでいう心理学者とは、深い人間洞察をする者といった意味です。現在の心理学者とは別です。つまり元祖心理学者。
不安の正体とは?

さて、その心理学者の言う不安とは何でしょうか?
不安とは、未知の何かに対する不安、あるいは、あえて向き合おうとすらしない何かに対する不安
『死に至る病』においてキルケゴールはこう書いています。
彼のいう未知の何かとは、はじめて受ける来週の試験のことや来月のプレゼンテーションのことではなく「永遠」のことです。永遠とは、中島義道先生の定義をお借りするなら「神ではないが神につながっているなにか」です。
例えば、死にたいと思ってもなかなか死ねないのは、あなたの内に永遠が存在しているからです。つまり、あなたの意思を超えた、あなたの内にいる何者かが「死ぬな、生きろ」と言っている。だから死にたいと渇望しても死ねないのです。
あえて向き合おうとすらしないもの

では、<あえて向き合おうとすらしない何か>とは何でしょうか。
本当はピアニストになりたい。しかしそれでは食っていけないからピアニストという夢に蓋をして見ないようにし、会社勤めをしている。こういった人の場合、<あえて向き合おうとしない何か>とは、ピアニストになる夢であり、夢を諦めたい自分であり、夢を諦めたくない自分であり、挫折を隠そうと必死な自分であり、世間に対する怒りであり、哀愁であり、自分に対する怒りであり、憂いであり……。そういったものを直視して生きるとすごく生きづらいので、それらを見えない場所に葬り去り、「見た目元気に」暮らしているのです。
しかし、やがて「なんか不安病」におかされます。なぜなら<不安とは(…)あえて向き合おうとすらしない何かに対する不安>だからであり、それを隠して「わたし元気です!」と言ったところで、<心理学者は、そうした状態が偽装であることを(…)よく分かっている>のです。
不安軽減のための対処法

というわけで、哲学のマジメなお勉強を書いてしまいましたが、以上のことから、世間に流布する「不安軽減のための対処法」が表層的なものであることがお分かりいただけたのではないかと思います。
例えば、瞑想や深呼吸。適度な運動。趣味に打ち込む。思っていることをノートに書く。そういった方法は束の間「なんか不安」を軽減させてくれるでしょう。軽減? いや、不安を見えない場所に遠ざけてくれるでしょう。
しかし、根本的には、永遠を直視したり、蓋をしてしまった気持ちの蓋を開けて直視したりしないと――すなわち、せめて1日1分は、自分と対話する時間を持たないと「なんか不安」のまま生涯を終えることになります。なぜなら、「なんか不安」とは「死にたくても死ねない病」すなわち、生きている間じゅうずっと続く『死に至る病』だからです。
というのが、元祖心理学者であるキルケゴールの主張です。
思い当たる節、ありませんか?
※引用・参考:『死に至る病』キルケゴール・S/鈴木祐丞訳(講談社)2017
※山括弧内も引用です。
専門家が教える「なんか寂しい」を卒業する5つの習慣
こんにちは。ひとみしょうです。
なんか寂しいとしか言えない理由のよくわからない寂しさは、それを問いの形にすることによって消えてゆきます。その結果、ネガティブな感情に支配されることなく、いつも明るく前向きな人生になるわけではありません。「自分の人生は、まあこんなもんかな」といった安定した納得感に支えられた人生になります。
さて、今回は、深い人間洞察に支えられている哲学に依拠しつつ、「なんか寂しい」を卒業する習慣についてご紹介しましょう。実践すれば人生に関する深い気づきを得られるかもしれません。
言いづらいことを先に言う

キルケゴール哲学を読み解く鍵語の1つは「隠蔽」です。隠蔽とは例えば、自分がコンプレックスに感じていることを隠すことです。学歴をコンプレックスに感じるから隠すとか、お金がないことを他人に悟られないように見栄を張るとか。
隠蔽から「なんか寂しい」が生まれます。「オレ、今日100円しかないんだよね」。こう言える関係を他者と築くことで「なんか寂しい」を卒業することができます。
善悪の判断を保留にする

テレビに映る不倫をした芸能人に腹を立てる人が多いそうですが、その芸能人はなぜ不倫をしたのでしょうか。下半身の欲望を満たすためだけでしょうか。
通常、行為の理由が1つしかないことはありません。複数の要因が折り重なった結果「そういうこと」を「してしまった」のです。つまり、「善くない」ことをするには、それなりの背景があるということ。その背景を洞察することが「なんか寂しい」を卒業させてくれます。要するに「なぜ」を考える過程において「なんか寂しい」が「問い」へと変わり、その必然の結果、ある日突然、問い自体が消滅するのです。
新しいことに挑戦する

「なんか寂しい」を卒業できない理由の1つは、あなたが何らか思い込みを持っているからです。簡単に言えば、自分で自分の心を「なんか寂しい」地点に繋いでいるのです。その思い込みは身体を動かして何らか新しいことに挑戦することによって、驚くほど瓦解します。身体は意識とはまったく独立に、何らかを考えているからです。身体の「新しい考え」は、新しい空間で新しい仕方で身体を動かす過程において萌芽します。
小説を読む

「今どき小説なんて」と思う人もおられるかもしれません。しかし小説は、ふだん私たちがうまく言葉にできない何らかの気持ちを、言葉を尽くして説明してくれている、いわば「他人の精神分析の結果」の書です。小説家にその自覚はないかもしれませんが。
しかし、私のような哲学をやっている人間からすればそう読めます。だから、年齢問わず、「小説の主人公を無二の親友と感じる」人がいるのです。自分に似た誰かの生きざまを精緻に知ることで「なんか寂しい」はやがて希望へと変わってゆくのです。
1日5分ひとりの時間をもつ

電車の中で5分でも、夜ベッドに入って5分でもいいので、1日に5分はひとりの時間を持ちましょう。「もうひとりの自分」と会話するのです。私たちの心の中には複数の「もうひとりの自分」がいます。それは絶え間なく他者の期待に応え続ける時間(ふだんの膨大な時間)においては息をひそめています。5分だけ、もうひとりの自分と対話することによって、あなたが生かされている意味が見えてきます。
いかがでしょうか。
冒頭にもお話申し上げたように、悩みは常に、それを問いの形にすることでやがて消滅します。その消滅を私たちは、「悩みが解決した」と言います。
悩みを問いの形にする習慣を5つご紹介しました。ぜひ実践なさってください。
専門家が明かす!なんか不安で「ベッドに入っても眠れない時」に知っておくとすぐ眠れる言葉3選
なんか不安でベッドに入っても寝られない時とは、生きざまに無理がある時です。つまり、地に足のついた生きざまをしていない時です。
例えば、キャバ嬢における「なんか不安」というのは、短時間で高収入を得るという行為や、世間の基準をもとに自分を「映えるように作る」行為ではない、なんらか別の行為をすることによって解消されます。

さて、「なんか不安」を哲学したキルケゴールは、そのことを『不安の概念』や『死に至る病』などの著作に記しました。地に足のついた生きざまをしていない人のことが精神分析的に書かれてある本です。
絶望を絶望と知らずにいる絶望。あるいは、自己を、永遠な自己を持っていることについての絶望的な無知
地に足のついた生きざまをしていないというのは、キルケゴールに言わせると精神を知らないということです。その精神は、言語化できる何かと言語化できない何かの両方を持っていますが、後者、すなわち言語化できない何かが心に宿っていることを知らない。だから「なんか不安」なのだと――。
言語化できない何かとは、例えばラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」のような聴く者を興奮させる音楽を聴くとそれが何なのか肌感覚でわかります。クラシック音楽を好まないのでしたら、あいみょんでもユーミンでもお聴きになるといいでしょう。すべからく音楽というものは、言葉にできないなんらかの気持ちを表現しています。

絶望して自分自身であろうとしない場合、弱さの絶望
精神を知っている人のうち、「わたしは本当はこう生きるべきなのだろう」とうすうす知っていて、しかしそこに向かえない。そんな自分を責める。そんな人のことを、キルケゴールは弱さの絶望と名付けました。
例えば、バリバリ仕事をするキャリアウーマンが夜、ベッドに入ると何かが不安で眠れないという場合、その人はキャリアウーマンではないなんらか別の仕事が適職だということです。
「わたしは本当はこう生きるべきだろう」という気持ちは、あなたが理詰めで作った気持ちではないはずです。それこそ気がつけばなんとなく、どこからともなく心の中に湧き起こっていた気持ちであるはずです。その気持ちをキルケゴールは永遠と名付けました。その永遠が語りかけてくるままに生きることによって、私たちは「なんか不安」という気持ちから解放されます。

絶望して自分自身であろうとする絶望、反抗
「わたしは本当はこう生きるべきなんだろうな」とうすうすわかっていても、それとは別の恣意的な「なりたい自分」であろうとする人のことを、キルケゴールは反抗と名付けました。
要するに、言語化できない何かがあなたに見せている「使命」を見ないふりをして「なりたい自分」を目指す、その生きざまをキルケゴールは反抗と呼んだのです。
例えば、私も経験があるからわかりますが、文学賞に20回も落ちたらさすがに「なんか違う」と思います。つまり、自分は小説を書くためにこの世に生まれてきたのではなく、なんらか別の仕事をするために生まれてきたのではないか、といったおおいなる疑義を抱きます。
その疑義を見ないふりをして、また小説を書いては応募し落選する。落選のたびにやけ酒を飲み、「そうだ『経験』が足りないからいい小説が書けないのだ」と思って風俗店で性行為をする――こういうのって、ただの自暴自棄であり、なんの価値もないわけですが、世間ではそういうのが無頼派の作家とかと呼ばれています。

いかがでしょうか?
ベッドに入るとなんか不安で眠れないという人がまず認めるべきことは、私たちの心の中には言語化できないものが存在しているということです。
その言語化できないものは実は、「あなたはこんなふうに生きるのがふさわしいです」というインフォメーションを私たちにもたらしています。その情報が聞こえているのに、そっちの方向に行かないことによって、私たちは「なんか不安」という気持ちを抱きます。あるいは、あえてそれ以外の恣意的な「なりたい自分」を目指すから、「なんか不安」と思います。
つまり、地に足がついてる生きざまをしている人というのは、簡単に言えば、なぜか(若くして)自分の使命がわかっているのです。これは親の育て方や環境などの要素もあると思いますが、究極的には、その人の世界がなぜか(若くして)使命を知るように開かれていたということであり、奇跡に近いことです。誰がどのようにその人の世界を開いたのかは、人類の誰もが知らないのですから。
というわけで、書いてあることが難しくて速攻で寝落ちした方も、なんか不安の根本原因がわかってスッキリして眠ってしまった方も、みなさんおやすみなさい。
※参考・引用 『死に至る病』キルケゴール・S(鈴木祐丞訳)講談社(2017)
専門家が教える「なんか寂しい」ときに知っておくと元気になる言葉3選
哲学好きの哲学解釈はしばしば間違っています。例えば、キルケゴールの有名な言葉に「人生は後ろ向きにしか理解できないが、前向きにしか生きられない」というものがあります。それを「未来を考えるには過去を振り返るしかない」と解釈する人がいますが、残念すぎるほど間違っています。彼はそんなことを言ったのではありません。反復のことを言っています。反復とは以下のようなことです。

あなたが同じ失敗を繰り返してしまう理由
なぜかは分からないけれどいつも同じことが原因で同じ失敗をしてしまう。そのことが原因で思ってもみなかった人生になった――自分の意思でそうしたわけではないのにそうなってしまった。そんな人生を生きるしかなかったキルケゴールは、みずからの体内に流れる「悪い血」、すなわち現代風にいえば遺伝的な性格と、その血をみずからの体内に注入した何者かに、その解を求めました。だって「そうあろう」と血のにじむ努力をしても「そう」なれなかったから。
あなたと同じです。東大に入ろうと懸命に勉強したけど入れなかった。東大に入ったヤツがうらやましい。嗚呼……。タワマンに住んでポルシェを所有することを目標に1日16時間働いた。しかし、生来の不器用かつ貧しい生きざまを変えることはできなかった。嗚呼……。

キルケゴールはつまり、人知を超える超越的な作用ゆえに繰り返される出来事、すなわち反復を理解することでしか「どう生きるべきか」という問いの答えを得ることはできないと言っています。
ちなみに、キルケゴールのこの概念は例えば、ジャック・ラカンの精神分析哲学におおいに役立ちました。「『盗まれた手紙』についてのセミネール」は「反復」に関する彼の小論(講義記録)です。夏目漱石の長編小説『こころ』の構造は「反復」に依拠しています。漱石がキルケゴールを読んだか否かは知りません。
という具合に、古典的哲学者の言葉は字面の意味をいくらいじくっても真の意味にたどりつかないものであり、真の意味を書くとこんなふうに説明が長くなるので、以下では、現代の人の言葉も交えて、なんか寂しいときに知っておくと元気になる言葉を3つお届けしましょう。

自己とは関係であるが、関係がそれ自身に関係する関係である ※1
こんな短文に4回も関係という言葉が出てくる悪文ですが(もっとほかに書き方があっただろうに)、彼は作家として名を成したかったので、あえてミステリアスな感じで書いたと思われます。私は彼のこの短文を気に入っています。
要するにキルケゴールは、自己とは関係だと言っています。何との関係なのか? 神です。が、神とはイエスだけのことではありません。冒頭に述べた、そうあろうと精一杯努力してもそうなれなかった、そうさせてくれなかった、なんらか目に見えない超越的な力のことも指します。
例えば、著書のタイトルである「死に至る病」とは、死にたいのに死ねない、その死ねなさのことを意味しますが、それは目に見えない力が自殺させまいと頑張っているから、死にたくても死ねないのです。ビルの屋上に立っても死ねなかった。今日こそは線路に飛び込もうと決意して駅に向かったのに、朝から晩までホームにいただけだった。こういうのは目に見えない超越的な力とあなたとがたしかに、関係している証左です。つまりあなたの体内には超越的な力が宿っているのです。
あるいは、絶望して自暴自棄になっている人が、「今日はやけ酒を飲んでから風俗に行こう」と決め、有り金のすべてを財布に入れ、訪れたスナックで偶然、ある女性と出会い、その翌月に同棲をはじめ、人生が急激に明るいものになった。こういうケースも、目に見えない力とあなたとがたしかに、繋がっている証左と言えるでしょう。
要するに、あなたは孤独であってもひとりではないということです。目に見えない誰かと常に繋がっているのです。なんか寂しい時とは、目に見えない誰かのことをあなたが置き去りにしている時です。つまり、あなたと会話したがっている誰かがあなたのことを待っているのです。元気が出ませんか?

青春は誰にとっても「謎の空白時代」としてある。 ※2
なんか寂しいと感じる時、すなわち何が原因なのかはわからないけど寂しい時とは、心にぽっかり穴が開いている時です。そういう時は自分は何者でもないと思うと同時に、何にでもなれそうに思える――それは「謎」の空白時代といっていいでしょう。
上の文章は、空海など立身出世を遂げた偉人たちを引き合いに、そういう立派な人にも「履歴書が空白」の「謎の時期」があるのだよ、という文脈において書かれています。しかし、なんか寂しい人にも同じことが言えると私は思います。
上の文章を方程式で表すと「青春=謎の空白時代」となります。ということは、例えば、なんか寂しくてついゆきずりの性行為をしてしまって後悔している人は、すなわち履歴書に書けないことを今まさにしている人は、あなたが何歳であっても、青春を生きているのです! やがて熟して花開く時を期待して待て!

人生は後ろ向きにしか理解できないが、前向きにしか生きられない ※3
ふたたび冒頭にご紹介した1文。キルケゴールのどの著書のどこにこの言葉が書かれていたのか忘れましたので、出典不明としました。『反復』だったかしら? 私が所持している本だけで10冊以上あり、とても探しきれません。
冒頭に述べたとおり、この言葉は反復のことを言っています。悪いこともいいことも、あなたの体内に宿る何者かが、あなたにもたらしたのだ。つまり、あなたはひとりではない。
さらに言うなら、あなたの漠然としたその寂しさは、あなたの無能さやおちこぼれ具合が生み出しているのでは断じてなく、「そういう構造」に支配されているから生じている。「そういう構造」というのは、言うなれば、性格の遺伝です。性格は生物学ではないので遺伝とは言いませんが、わかりやすく言えば遺伝。
曾祖父母、祖父母、父母と脈々と流れるブラッドの中にあなたは生きています。あなたは決してひとりではないし、その寂しさはそのブラッドがどのような血なのかが分かれば消えます。つまり自分のルーツを知ると必ず消えます。
いかがでしたか?
哲学者の言葉というものは優れた歌詞同様、言葉の奥にいくつもの概念や情感が詰まっているもので、「ちょっとだけ」ご紹介するわけにはいかないので、おのずと長文になってしまいました。
というわけで、今回はこのへんで。ご賞味いただけたならうれしく思います。
引用:
※1 キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳/講談社/2017
※2 立花隆『青春漂流』/講談社/1988
※3 キルケゴール・S/出典不明
デンマークの哲学者が示唆する「将来への漠然とした不安」を解消させる方法とは?
この先ずっといまの彼氏と一緒にいることのなにが不安というわけではないけれども、しかし「なんか不安」。そんな悩み方をしている女性がいます。
さて、その「なんか不安」とはなんなのでしょうか。そしてそれはどのように解消すればいいのでしょうか。以下に一緒に見ていきましょう。
彼と話し合う、相手の親に会いに行く

当たり前のことですが、「なんか不安」なのであれば、その「なんか」を箇条書きにして1つ1つ問題をつぶしていくといいです、というのが、もっとも現実的が対処法でしょう。
たとえば、いまの彼と結婚した場合、彼のご両親と上手くやっていけるのだろうかという不安があるのであれば、彼の両親に会いに行くといいのです。
あるいは、彼の仕事の先行きが不安なのであれば、「あなたの仕事はあと何年ぐらい続きそうですか」とか「あと何年くらいいまの収入を続けられますか」などと問えばいいのです。
そうやって相手に問うことによって答えが返ってき、その答えをもとにさらに問う……ようするに普通の会話をすることによって漠然とした不安が消えるのであれば、それが最もいい方法でしょう。
しかし、それでも残る「なんとなく不安」という気持ちがあるからこそ、あなたはこの項を読んでおられるのではないでしょうか。では、それでも残るなんとなく不安という気持ちとは何なのでしょうか?
渡辺美里「言い出せないまま」

ところで、渡辺美里さんの曲に「言い出せないまま」という曲があります。ある女子に片思いをしている男子の、切ない恋心を描いている作品です。
彼は彼女のことが好きすぎて、というか彼女に憧れすぎていて、彼女と目が合っても本当に言いたいことを言えません。「彼女の心の中を覗いてみたい」「彼女を瓶に閉じ込めてずっと眺めていたい」と思っています。ようするに彼は、憧れにがんじがらめにされてどこにも行けないのです。
その行けなさが彼に、「彼女がふと遠くへ消えてゆくのではないか」という漠然とした不安をもたらします。つまり、彼女に対する憧れの気持ちが原因で、漠然とした不安を抱いてしまい、その不安を彼女に問うことができないのです。
彼女になんら憧れを抱いていない、ごくふつうの友だちであれば、彼はきっと彼女に、さらりとさまざまなことを問うことができるでしょう。「ねえ、きみは急にどこかに消えたりしないよね?」「きみは心の中で何を考えてるの?」「君のことを瓶に閉じ込めてずっと眺めていてもいい?」などとふつうに言えるでしょう。憧れの気持ちがあるからこそ、言えなさが生じ、その結果、漠然とした不安が次々に押し寄せてくるのです。
漠然とした不安とは言えなさのこと
つまり、将来への漠然とした不安とは言えなさのことなのです。彼に言いたいけれど言うことのできない問題、あるいは自分自身に問いたいけれど問うことのできない問題。それらの問題があなたの心に、将来への漠然とした不安をもたらしているのです。
では、どうすれば言えなさが解消されて言えるようになるのでしょうか?
同じことを違う言葉で繰り返すようですが、彼に対する憧れの気持ちを捨て去れば、将来への漠然とした不安が消えると言えます。あるいは、自分自身の人生に対する憧れを捨て去ることができれば、将来への漠然とした不安を解消させることができると言えます。
まず、彼に対する憧れについて具体例を挙げてお話しましょう。
たとえば、彼の経済力に惚れた結果、彼との結婚を検討している女性の場合、彼女は彼の経済力に憧れていると言うことができます。自分にないものを「下から上を見上げるかのように」眺める状態が憧れなわけですから、彼女は彼の経済力に憧れています。そういう彼女は、彼に対して具体的なお金の話を切り出せません。彼のふるまいから、「なんとなく彼は1億円くらい貯金を持っているだろう」などと頭の中で計算するだけです。すると当然のように「彼はいつまでお金持ちなのだろうか。結婚生活の途中で貧乏になったりしないだろうか」という漠然とした不安が押し寄せてきます。
この彼女は、彼の経済力に対する憧れを捨てて、彼と対等な目線でお金の話をする自分になる必要があります。あるいは、最初から対等な立場でお金の話をすることのできる男性(たとえば自分と同じ経済力の男性)とつきあうのがベターでしょう。
「なんか不安」を解消させる方法

次に、自分の人生に対する憧れについてお話します。たとえば、以前私のもとにカウンセリングに訪れたある女性は、町の子どもピアノ教室でアルバイトをしていました。彼女は自分の仕事にやりがいを感じていると言いますが、じつは心の片隅で世界的なピアニストに憧れていました。彼女は自分の実力や経済力の限界を熟知しつつも、できれば人生をやり直して世界的なピアニストになりたいとひそかに思っていたのです。つまり、彼女は自分の人生に対する憧れを持っていました。
そういう人の特徴は、言えなさをたくさん抱えている点にあります。自分が自分の人生に対して憧れを抱いている、すなわち人生を「下から上へと見上げている」わけですから、そこには当然、言うに言われぬ不安がたくさん含まれています。
その種の不安は、自分が憧れている対象について具体的に知ることでおおむね解消されます。たとえば、世界的なピアニストに憧れている人は、往々にして、世界的ピアニストのいい面しか見ていません。世界的ピアニストだって人の子ですから、年収が何億円もあればまったく知らない人が「私はあなたの親戚ですからお金をください」と言い寄ってきて大変だ、という事実を知りません。あるいは、友だちと遊んでいても絶えず10年先のコンサートの承諾をとりつける音楽プロモーターに追い掛け回されて「人気者も良し悪し」とため息をついていることを知りません。
つまり、この世の中には憧れるほどの人はおらず、みんな自分と同じ「ただの人」なのだという認識がないのが、憧れの気持ちを抱いている人なのです。
というわけで、将来への漠然とした不安を解消させる方法は、あなた自身が抱える言えなさをどうにかしましょう、となります。
ちなみに、今回も、おちこぼれの哲学の始祖であるキルケゴールの哲学をもとにお話しました。
ユーミンと永遠
ユーミンは「とりとめのないもの」や「はかないもの」をとてもうまく歌詞にします。聞くところによると、ユーミンは「せつなさ」を、音楽をとおして追究(追及)しているのだとか。
そのせつなさとは「永遠」のことです。
たとえば「紙ヒコーキ」というユーミン(荒井由実)の作品は「とりとめのない気ままなものに どうしてこんなにひかれるのだろう」と歌います。とりとめのない気ままなものが永遠そのものです。
それになぜかひかれる。
つまり意思の力で「そんなものにひかれてはならない。生活するためにしっかり働かなくてはならない」と思ったところでなぜか永遠にひかれるのがわたしたちなのです。
ヒコーキつながりで「ひこうき雲」(荒井由実)。
歌詞のなかの主人公である「あの子」は「誰にも気づかれないままのぼって」ゆきます。永遠とは誰にも気づかれない心のいち領域なのです。だって、「あの子がなにを考えていたのか誰もわからない」のだから。
やがて「あの子」は「空へ舞い上がり」ます。死をも恐れない気持ち。それが永遠です。その「あの子」は「空にあこがれて」いました。つまり崇高なもの、神がかっているもの、神ではないが神につながっているなにか、にあこがれました。ようするに永遠にあこがれていた。
だから(しかし)「あの子」は「しあわせ」だとユーミンは歌詞に書きました。永遠にあこがれ、それに生涯を賭すことはしあわせだ、すなわち永遠を地でゆく生き様はしあわせだということでしょう。
ところで、ユーミンは1990年に「天国のドア」というアルバムをリリースしました。当時は1枚のアルバム、すなわち10曲ほどで1つのコンセプト(概念)を表現することのできた時代(ようするに今のように1曲ずつダウンロードでしか売れないのではなく、アルバムが売れていた時代)でした。
そのアルバムのキャッチコピー(当時はバブルでお金ならいくらでもあったのでアルバムにご丁寧にキャッチコピーが添えられていた!)が
「永遠をお探しですか」
でした。ユーミンがキルケゴールやラカンを読んだかどうかは定かではありません。しかしそのキャリアの最初期からとりとめのないものにこそ、うたの歌詞にすべき価値あるものが含まれていると(おそらくは)考えていた(であろう)当時のユーミンにとって、そのキャッチコピーは「キャリアの集大成」というべきものだったのではないでしょうか。
時はバブル。お金があればなんでも買えると多くの人が思っていた時代。その時代にあって、ユーミンはお金をいくら積んでも買えないもの、すなわちみずからの心に宿る永遠に限りなく近づきたいと思っていたのかもしれません。
実際にユーミンのプロデューサーである旦那さんの松任谷正隆さんは「天国のドア」をプロデュースし終えて次のようにお話しています。
――こんなことを言うと、病院に連れていかれるかもしれないけれど、僕は確かに神をみたんだ――(月刊カドカワ VOL.9 NO.1)
とりとめのないものにひかれる気持ちや、死にあこがれる気持ちは、おそらく誰でも抱いたことのある気持ちではないでしょうか?
「いや、そんなものに惹かれないでもっと仕事を頑張るべっきっしょ」「いや、自殺はよくないっしょ」現代はそういう意見が幅を利かせていますね。合理的かつ効率的に金儲けする人が「えらい」んでしたっけ? 現代においては。
しかし、世間がどうあれ、謎の存在者「X」がわたしたちをあらぬ運命に引きずり込むのは、キルケゴールやラカンの慧眼のとおり、今もむかしもまったく同じなのです。
※参考
キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020

性欲と永遠について
学校では「性教育」をやっているようですが、わたしが知る限り、「性欲」についてみんなで考えるという取り組みをしている学校はありません。
がしかし、もっともうっとうしい日常感覚である「なんかさみしい」は、じつは性欲と分かちがたく結ばれています。
あのavex(エイベックス)が隆興する以前、渡辺美里さんが「言いだせないまま」(作詞:神沢礼江 作曲:木根尚登)という歌を歌っています。
歌詞の主人公は中学3年生くらいでしょうか。ある女子に片思いしている男子の切ない恋心を描いている作品です。
彼女のことが好きすぎて、というかあこがれすぎていて、彼女と目が合っても「本当に言いたいこと」を言えない。そんな彼は「彼女の心の中を覗いてみたい」「彼女を瓶に閉じ込めてずっと眺めていたい」と思います。
つまり、性欲を含む永遠におかされている彼は、彼女の魂の秘密を暴力的な方法を使ってまで知りたいと思うのです。ようするに、彼は性の問題を含む永遠にがんじがらめにされて「どこにも行けない」。
どこにも行けない「行けなさ」が、彼女がなぜかふと遠くへ消えてゆくのではないかという不安を彼の胸に運んできます。すべてが消えてしまいそうな不安を前に彼はただ立ち尽くすしかありません。
つまり、この作品は、永遠を「性欲を含むあこがれ」という「どこにも行けない気持ち」を生みだすものとして描いていると解釈することができます。
この気持ちはなにも男子に限ったものではありません。
女子のなかには「推し」に激しくあこがれている人がいますが、そういう人もまったく同じです。あこがれがもたらす「出口のなさ」に閉じ込められています。ほら、前の項でお話した夏目漱石、彼が「牢屋」と表していたのはこの息苦しい気持ちのことなんですよ!
息苦しい牢屋的気持ちを脱するために、より広い視点で申し上げるなら、異性を過度のあこがれでもって見上げるのは運命ゆえです。その人にそういう「血」が流れているからです。
精神分析によると、わたしたちは祖父母の考え方のクセを引き継ぐのだそうです。その言にしたがうなら、異性に激しくあこがれたことのある祖父母をあなたはもっているはずです。
と、広い視野に立って心が落ち着いたところで(落ち着きましたか?)性欲について少し解説を加えましょう。
性欲というのはなにもセックスをしたい、おっぱいを揉みたい、という気持ちのことだけではありません。相手の「魂が開かれていいる地点」を見たいという気持ちも、じつは性欲なのです。
大昔の話をします。
プラトンの『饗宴』によると、大昔、わたしたちは「オトコオンナ」という生き物だったそうです。つまりひとりの男とひとりの女が背中合わせにくっついてひとりだったそうです。やがてお供え物の数に不満を感じた神様が男女を分けて、今のように男と女になったとのこと(チャーミングで強欲な神様ですよね)。
男は、「自分の半身」である女を真剣に探します。女も同様に「自分の半身」を熱心に探します。幸運にも自分の半身に出会えたら、ふたりは「驚くほどの愛情と親密さとエロスを感じ取る」のだそうです。エロスとはエロじゃなくて完全なものを求める気持ちのことです。
しかし「彼らは、自分たちが互いに何を求め合っているのかを言うことはできないだろう。彼らは単にセックスをしたいだけで、そのためにお互いに喜びを感じ、かくも熱心に一緒にいたがるというのか。誰もそんなふうには思うまい。彼らの魂が求めているのは、明らかに、なにかそれとは別のものなのだ。彼らの魂は、それが何なのかを言葉にすることができない。彼らの魂は、自分の求めるものをぼんやりと感じとり、あいまいに語ることしかできないのだ」(プラトン『饗宴』中澤務訳・光文社)
ほら、「それが何なのかを言葉にすることができない」「彼らの魂は、自分の求めるものをぼんやりと感じとり、あいまいに語ることしかできない」これはまさに永遠でしょ?
永遠というやっかいなものは、そこに「セックスをしたいだけではない性欲」を含むからやっかいなのです。
ちなみに、男子は初恋の人のことをずっと忘れられないと、世間では言われていますよね?
それはなにも、初恋のあの子のおっぱいのふくらみや尻の曲線美を忘れられないだけではありません。初恋の子とセックスしたかったという後悔だけでもありません。
あの子の永遠を知りたいのです。彼はあの頃かんじた永遠をまだ言語化できていません。それゆえ完結していない物語を、どうにか終わらせたいともがいているのです。必死なのです。
そういう心持ちをわかりやすい言葉でいうと「忘れられない」となるのです。
※参考
キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020

新海誠監督「秒速5センチメートル」と永遠のエグさ
前項まで、永遠のいいところとか、ちょっとせつないところについてお話してきました。しかしじつは、永遠はエグイ側面ももっています。そこで今回は、エグくなりすぎないていどに、永遠のもつエグさについてお話したいと思います。
さて、新海誠監督の作品に「秒速5センチメートル」があります。タカキという主人公の小学生時代から大人になるまでの生き様を回想的に描いている作品です。
中学3年生のタカキは、小学生のころ仲の良かった、しかし親の転勤で別々の中学に進学したアカリに、久しぶりに会いにいきます。そしてキスをします。
キスシーンの直後、ナレーションが入ります。要約すれば以下のようなナレーションです。
「その(キスした)瞬間、ぼくはアカリという彼女の魂のあり方(アカリの世界の開闢の秘密)がわかった気がした。しかし直後、哀しい気持ちになった。魂や心と呼ばれているものをどう扱っていいのかわからなかったからだ」
つまりタカキは、アカリのもつ永遠と、自分のもつ永遠を、中学3年にして知った。そしてそれをどう扱うといいのかわからないということがわかり、そのわからなさはきっと長期にわたって続くと予感した。
高校も中学同様、タカキとアカリは別々の学校に進学します。タカキは親の転勤で種子島(鹿児島県)の高校に進学します。新海誠監督がタカキの永遠を、宇宙やロケットの発射に仮託させて語りたかったので種子島を選んだのではないかと思います。種子島には宇宙センターがありますから。
さて、種子島の高校では、タカキに片思いする女子が登場します。タカキは永遠に心奪われているので、宇宙に関する雑誌を読みあさったり、しかるべき大学に進学するための勉強をしたりしています。同時に、夢のなかに出てきた「あの子」の、夢の中における言動をスマホに書きつけます。ときどき、タカキに片思いしているその女子と一緒に下校するときですら、彼はスマホにそれを熱心に打ち込んでいます。そのことに気づいた彼女は哀しい顔をします。
むろん、「あの子」はアカリの象徴です。タカキは夢のなかで、高校生になったアカリを夢想し、アカリの尻を揉んだりおっぱいを触ったり、あるいはセックスしたのかもしれない。したかったのかもしれない。自分の無意識が出てくるのが夢ですから。
しかし、おそらくタカキにとってそういう「表層的な」性欲はどうでもよく、アカリの魂のありかたやら、永遠という謎の存在「X」の秘密を解き明かしたいと必死だったのではないでしょうか。
やがてタカキに片思いしている女子は叶わぬ恋と悟り、静かにふたりの関係は終わります。
自分に親切にしてくれる「目の前にいる人」に目がいかない。気持ちが向かない。これが永遠のもつ残酷な一面です。タカキのなかでは永遠ほど価値あるものはなく、目の前の女子など「あとまわし」なのです。彼女が果たせぬ思いに涙しようが何をしようが、悪気なく「見えていない」のです。
つねになんかさみしいと思っている人は、目の前の人やコトに集中できない。つねに気持ちが過去に向いてしまう。過去回想こそが生きるためのガソリンであり、「今ここ」に気持ちをつなぎとめておけない。これは一般論かもしれませんが、しかし新海監督はそのことを精緻に、ときに芸術的に描きます。
時はすぎ、大人になったタカキは、就職した会社をすぐに辞めます。これも「今ここ」を生きることのできない人の特徴です。相変わらず永遠に心を支配されており、コンビニで買った安酒の空き缶が部屋に転がり、タバコを吸い、影のある彼女のことをうまく愛せない。雇用保険で食いつなぎ、昼間でもカーテンを半分ほど閉めた部屋でほとんどひきこもり状態。そんな不幸三重奏が描かれます。
そう、永遠はそれを知ってしまった者の心を「今ここ」に向かせないばかりか、世間にまったく馴染まない性格に変えてしまうのです。死んでもいいやと思わせてしまうのです。自暴自棄にさせるのです。
映画の終盤、アカリはタカキ以外の誰かと結婚することになります。結婚が決まって実家を去る日のアカリの様子が描かれます。田舎の実家から電車に乗って嫁ぎ先に向かうアカリが車内で読んでいるのは、夏目漱石の『こころ』です。現在のタカキをアカリは知らない設定ですが、タカキと心でつながっているアカリには「タカキを<殺してしまった>のはわたしだ」という自覚があるのでしょうか。それとも単なる「よくできた心理学的小説」として読んでいるのでしょうか。さだかではありませんが、『こころ』が「なんかさみしいとはなにか?」すなわち永遠をテーマとした小説であることはたしかでしょう。
アカリも、タカキから遠く離れた場所で、おそらくはタカキ同様、永遠について考えていたのでしょう。ふたりとも同じテーマ、すなわち永遠について誠実に考えてきたのに、ふたりはパラレルだったし、今もパラレルだし、これから先も交わることはないでしょう。永遠の残酷さはここにも表れています。他人のさみしさは救えない。
他方、その頃のタカキはまだなお、アカリの永遠を反復的に回想している。そしておそらくは、「あの頃の」アカリとセックスしたいと渇望している。しかし「あの頃のアカリ」は幻だから、タカキは幻に恋をしている。つまりどこにも行けない。牢屋的人生。不可解な恐ろしいものに支配されきっているすさんだ生活。酒、妄想、オナニー。絶望。自暴自棄。やがて、今タカキのことを愛してくれている彼女とも別れてしまう。そしてエンディング……。
いかがでしょうか。
ユーミンは、たとえば「ひこうき雲」で永遠をおしゃれに描きましたが、新海誠監督はおしゃれさをもちつつも、永遠のもつ凶暴さや邪悪さを誠実に描きます。生きづらさ、人間関係のうまくいかなさ、あの頃の彼女しか愛せない哀しさ、行き止まり感、出口のなさ感、目の前を人を愛せないゆえどんどん他者に哀しみを与えてゆく負の循環のどうしようもできない「どうしようもなさ」、どうしようもなく膨満し続ける性欲……。
永遠とはそういう側面を持っているのです。
あなたの心にもじつは、それがちゃんと宿っています。だからあなたは、わけもなく「なんかさみしい」と感じるのです。
※参考
キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020

なりたい自分を目指すから病むのです
なりたい自分になろう、ということを、自己啓発はもとより、心理学系の国家資格保有者も言いますが、じつは、なりたい自分を目指すから人は病むのです。
なりたい自分ではなく、もって生まれたものが何かを知り、そこに向けて歩くなかで、わたしたちの人格はたしかに形成されます。
キルケゴールは「なりたい自分」を目指し、それになれない「なれなさ」に打ちひしがれ、自分を責めることを「弱さの絶望」と名付けました。
他方、「オレはこんなに努力しているのに、なぜなりたい自分になれないのだ!」と、怒り、自暴自棄になる人の絶望を「反抗」「男性的な絶望」と名付けました。
いずれも「なりたい自分」を目指すこと、すなわち、自分が本来持って生まれたものを知ろうとせず、「雰囲気」で「こうありたい」と思い、それを「勝手に」めざすところから生まれる絶望です。
雰囲気というのは、たとえば、心理学が「明るく元気に生きよう」と言うと「たしかに」と思って、自分を明るく元気に「矯正」する、とか。インスタのちょいエロのインフルエンサーがかっこよく見えてそのマネをするとか、そういうことです。
自分はどのような能力をもって生まれてきたのか、は、さまざまな社会経験を経ないと見えづらいのが実情です。
しかし、キルケゴールの心理学をもよく研究したラカンは、わたしたちは祖父母の血を引いており、それゆえ「祖父母と同じ不幸を経験する」と言っています。
つまり「もって生まれたもの」は祖父母の生き様を「知る」ことでおのずと見えてきます。
あるいは、自分が失敗した原因を振り返ると、たいていの人は同じことが原因で失敗しているとわかります。
たとえば、しあわせになれる! と確信した瞬間、気持ちが冷めて、あえて不幸になる方向に歩む、とか。
「なりたい自分」をめざす前に、自分のルーツを知る。
これが自己肯定感を高める要諦だといえます。
※参考
キルケゴール・S『死に至る病』
ラカン・J『エクリ』
ひとみしょう『希望を生みだす方法』
