ある精神科医は「なぜ死にたいと思ってしまうのか」という問いに対して、「テレビで絶えず誰が死んだとか、戦争で何人死んだというニュースをやっているからだ」と答えていました。
ちょっとがっかりしました。
とはいうものの、科学の心理学というのはそういった考察をする学問らしいので、まあ精神科のお医者さんらしい答えだというべきでしょうか。
さて、私たちはなぜ死にたいと思ってしまうのか?
死というものを隠蔽することなく、それに正面から向き合ってきた心理哲学の答えは、ざっと2つあります。
1つは、かの有名なフロイトの主張です。すなわち、私たちは生まれながらにして死への欲動を持っているというものです。
簡単に言えば、快楽の方ではなく、その対極にある不快、しかもその極致である死、すなわちダメになる方に、なぜか気持ちが向いてしまう。私たちの心というのは、そのようなものなのだというのがフロイトの主張です。
これは小さな死を考えると理解しやすいと思います。
例えば、ピアノの発表会の時に「トチってはいけない」と思いつつも、あえてトチったとしか思えないような間違いかたをする人がいます。
なるほど。彼女の心の中では成功したい、すなわち生きたいという欲求と、失敗したい、すなわち死にたいという欲求が葛藤しているのでしょう。
今ひとつは、デンマークの哲学者であるキルケゴールの主著『死に至る病』をもとにお話ししましょう。
死に至る病というのは、死にたくても死ぬことができない状態のことです。
なぜ死にたいと思うのか?
こうありたいと思う自分と、こうでしかない自分、すなわち理想の自分と現実の自分のギャップが大きすぎて、それを埋めるすべがなく、途方に暮れるから死にたいと思います。
私たちの心の中には、なぜかわからないけど、崇高な目標(夢)を見る自分が棲んでいるというのが、前提にある考えです。
例えば、私であれば、ボストンシンフォニーのチェロ奏者になりたいと思うことがあります。もちろんそんなことは無理です。幼い頃から桐朋音大にお世話になり、大学を首席で卒業し、海外の音楽大学院に進学し、そのうえでものすごく運が良ければ、ボストンシンフォニーのチェロ奏者の席に座ることができるでしょう。
しかしそんなの、何万人とか、何十万人に1人の確率であるはずです。
でも私は、生まれ変わったらそうなりたいと、ぼんやり思います。とくにサイトウキネンオーケストラの映像に見惚れているときに。
それに比べて今の私は・・・・。
とくに芸術の神様に肉薄するような生活をしてるわけでもないし、なんらか人生の真実というものを書いているわけでもない。理想の自分と現実の自分のギャップが大きすぎる。それを思った時、私は今でも死にたいなと、ふと思います。
つまり、死にたいと思う人とは、自分が持って生まれた悪い血、不運な血、何をやってもうまくいかない血というのを、骨の髄まで認識しており、かつ、崇高な目標や夢がしばしば胸をよぎる人です。
そうであれば、そりゃあ誰だって死にたくなりますよね。
したがって、「死にたいです」という問いの意味がわからない人というのは2パターンです。
そんなに悪い血を持って生まれていない人、すなわち生まれ育ちがラッキー、かつ崇高な目標をなぜか持ってない人。
そういった人たちは「死にたいです」という問いの意味がよくわからないようです。
冒頭に挙げた精神科のお医者さんも、おそらくそうかもしれません。死にたいと思っている人のお世話をしている人の中にも、問いの意味がわからない人がいるのを私は知っています。
その意味では、死にたいという問いを理解できる人というのは、それじたいが1つの才能なのかもしれません。
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なぜ死にたいと思ってしまうのか?
自分と他人を比較してしまうのはなぜ?
自己肯定感の低い人は自分と他人を比較しがちだと言われます。
「あの人に比べて私はまだまだ」とか、「自分よりもっと毒親に苦しめられている人がいるのだから、私なんかまだマシ」みたいに、自分と他人を比較しがちなのが、自己肯定感の低い人。
そういう人に対してカウンセラーたちは、「自分と他人を比較するのはやめましょう」と言います。
しかし、「やめましょう」と言われたところで、自分と他人を比較してしまうのは、その人の意志の力ではありません。気がついたらなぜか比較してしまっているのです。
自己肯定感が低く、その苦しみにもがいてこなかったカウンセラーは、しれっと「比較しないようにしましょう」と無責任なことを言いますが、本人はそんなこと百も承知です。
比較してはいけないなんてわかってるんです。でも、なぜか比較してしまう。だから心がつらい。そのことに気づかないカウンセラーは、カウンセラーの資格がないとすら私は思います。
さて、なぜ、なぜか比較してしまうのか?
心の中に「崇高なもう一人の自分」が宿っているからです。
その崇高なもう一人の自分のことを、キルケゴールという実存主義の哲学者は「永遠」と呼びました。フランスの精神分析家医のジャック・ラカンは「反復強迫」と呼びました。
要するに、自分の心の中に神様が宿っているのです。
神様という言い方があまり好きではない方は、人間よりちょっと立派なもう一人の自分が心の中にいるとお考えください。
そいつが、現状のこの自分ではない、なんらか素晴らしいもうひとりの自分を心の心の中に生み出しているのです。
例えば、高校生で、数学のテストが 40点だった人がいるとします。数学は大学受験で使わない予定なので別に40点でも現実的にはなんの差し障りもない。
しかし、心の中にいる神様が「 40点じゃまずいぞ。頑張って平均点くらいは取らないと」と言ってきます。
40点でいいという自分と、それではまずいからもっと頑張れという自分が、心の中で葛藤します。
その葛藤は、たとえ大学受験に合格したとしても、ずっと続きます。大学を卒業して30歳になっても「自分は数学をさぼってきた」というコンプレックスに苛まれ続けます。
それもこれも、心の中にいるもう一人の自分、すなわち神様のせいです。
このことをより分析的に言うと、祖父母のうちの誰かが同じような葛藤を味わいつつ、生涯を送ったと言えます。
私たちの性格は2世代前の人のそれを引き継いでいる、すなわちおじいちゃん、おばあちゃんの性格を遺伝的に引き継いでいるというのが、フランスの精神科医であるラカンの洞察です。
数学にもがき苦しんでいる人はだから、おじいちゃん、おばあちゃんも数学に苦しんだことがある。あるいは数学に類似の何かができなくて、しかし、やるべきで、もがき苦しんだと言えます。
いずれにせよ、自分と他人を比較するのをやめましょうという言い方は、まったくもって無意味な言説です。
なぜ比較してしまうのかを、それぞれのカウンセラーがクライアントに丁寧に説明すべきでしょう。「やめましょう」と言って金をもらうのはちょっとどうなんですかね?
ぼくにでも言えるしあなたにも言えると思いませんか?
悩んでいる自分を受け入れるってどうすればいいの?
心理職の人がわりとよく言うのが「悩んでいる自分を受け入れてあげよう」です。
そうすれば心のモヤモヤがおさまるから、ということらしいのですが、いや、あのさ、それができないから悩んでいるんっすよ。
悩んだことのある人はよくご存知でしょう。
悩んでいる自分を受け入れてあげよう。
ちいさな幸せを見つけてそれに感謝しよう。
物事のいい面を見よう。
いや、それができないからこうやってカウンセリングに来ているんっすよ。
さて、悩んでいる自分を受け入れられない理由は1つ。
悩んでいる自分が嫌いだからです。
嫌いなヤツを受け入れようと言われても、それは無理っしょ、と、こうなりますよね。
悩んでいる自分とは「こうありたい」と思っている自分と「こうでしかない自分」との葛藤が生み出す自分のことです。
たとえば、もっとやりがいのある職場、かつ人間関係が円滑な職場ではたらきたいと思っている自分が「こうありたい自分」です。
他方、やりがいもなく人間関係も劣悪な職場におり、転職するスキルも勇気も湧いてこない自分が「こうでしかない自分」です。
その葛藤をどうにかすれば「悩んでいる自分も受け入れてあげましょう」というカウンセラーの無理難題を聞かずにすみます。
ではどうすればいいのか?
「こうありたい自分」と「こうでしかない自分」の葛藤に苦しむ人とは、根無し草です。つまり自分のルーツを忘れている人です。
自分は本当はAという人格をもっており、ゆえにBという職業にやりがいを感じる――こういう「正解のようなもの」をわたしたちはもって生まれてきていますが、それを忘れているから根っこがないのです。
だから、Cという性格の持ち主にあこがれ、それゆえDという職業につき、そかしうまくいかず・・・・ということになるのです。
自分のルーツ、具体的には、祖父母の生き様を知ることから、自己肯定感は高くなるのです。
不安とはなにか
不安とは可能性のことで、可能性とは無です。つまり不安とは「なにもなさ」のことです。
わたしたちは不安なとき、ある可能性のことを考えています。たとえば、「子どもがこのまま勉強しないと中学受験に失敗するかも」とか。
つまり、不安なお母さんは、子どもが受験に失敗するという可能性を考えている。
あるいは、モテない女子の場合、「このままずっと彼氏ができないと結婚できないかも。セックスもできないかも」と思っている。
つまり、不安な彼女は、結婚やセックスができないという可能性を考えている。
しかし、その可能性は無です。なにもない。起こらない。
なぜなら、不安だからなにか行動を起こそうと思って実際にやったことによって、なんらか人生が動くからです。
不安だから「なにもしない」という「行動」を「起こした」ことによって、実際に中学受験に失敗する、結婚できない、セックスの相手に不自由する、ということです。
ところで、不安とは可能性であり、可能性とは無であると言ったのはキルケゴールという哲学者です。
彼はたとえば、自分の「血」におびえるゆえに不安だった。
両親の「不幸になる悪い血」を自分が受け継いでいることを兄弟のだれよりも自覚していたキルケゴールは、「オレ、結婚したら結婚相手を不幸にしてしまうかも」と不安に打ちのめされていました。また、「オレ、つきたい職業につけないかも」と不安で不安で夜も眠れませんでした。さらには、「36歳になる手前で死んでしまうかも、オレ」と不安で不安でしかたなかった。
そんな胸をかきむしるような不安は、36歳の誕生日の日に消えます。
36歳の誕生日の朝、彼は自分が死んでいないことに気づきます。
「オレ生きてるやん!」
その瞬間、これまでの不安がいっきに晴れました。そして、
「今この瞬間にやったことがすべてだ」と気づきます。
実存(わたしたち人間)は、今こここの瞬間を生きることだけに価値があるのであって、過去を思い煩ったり、未来に思いを馳せても、それはなんの意味もない。
彼はこう気づきます。
しかし、ここからが彼のすごいところですが、不幸は連鎖するとも彼はのちに悟ります。
つまり、わたしたちは「おなじ」失敗を繰り返すのだと――。
あれこれ不安に思うことは起こらない。
しかし、おなじパターンの不幸は起きる。
ということは、自分の失敗のパターンを知ることが重要であって、不安だ不安だと騒いでも意味はないということです。まず知ることが重要。
不安はなにも引き起こさない、心配事は起きない。
しかし、祖父母由来の「おなじ失敗」、これはかたちを変えて繰り返される。しかしそれは「血」が繰り返しているのであって、あなたの意思が能動的に繰り返すわけではない。
というわけで、不安に胸を震わせようと震わせまいと、先祖由来の血があなたに失敗をもたらしますので、それまではどうぞ心穏やかにお過ごしください。
ちなみに本稿はキルケゴールの『死に至る病』と、ラカンの『エクリ』に収録されている「『盗まれた手紙』についてのセミネール」をもとに書かれました。後者の解釈は福田肇先生のそれを参考にさせていただきました。
だからアンガーマネジメントは効かない
なんらかの思想が流行れば、人々はそれを「効果がある」と思い込むのか、アドラー心理学を応用したアンガーマネジメントが巷で人気です。アドラー心理学を含め、多くのアンガーマネジメントが主張するところを簡単にまとめると、怒りを感じた瞬間から6秒待つ、「べき論」から解放されよう、自分にできる範囲のみコントロールしよう、というものです。
もっと簡単にいえば、「待つ」「べき論からの解法」「できることをやる」となります。
まあ、表層的にはそういうことが言えるのだろうと思います。しかし、怒っているヤツに「6秒待て!」と言ったところで「うっせー」と言われるのがオチでは? 「べき論」からの解法だって、それができないから私たちは日々七転八倒しているのでは? あるいは高齢になって「あるがまま」を求めて禅寺を訪れるのでは? 「できることだけをやろう」にいたってはもう無理。できることだけで人生は構成されていないことは誰だってご存知でしょう。
さて、真のアンガーマネジメントとは、「永遠」と「こうでしかない自分」との折り合いをどのようにつけるのか、という問いに自分なりに納得のいく答えを出すところにあります。
夏目漱石風に言うなら、不可思議な恐ろしい力と、それに操られている「この自分」にどのように折り合いをつけるのか、です。
つまり、怒りとは「こうありたい自分」と「こうでしかない自分」との葛藤、すなわち永遠と現実の葛藤なのです。「生と死の問題を書いて小説家デビューしたい」と思っても、新人賞の一次すら通過しない現実。聞き分けのいい子を育てたいと思っても、親に反抗する我が子という現実……。「こうありたい自分」と「こうでしかない自分」の乖離が大きければ大きいほど怒りは強くなります。
ということは、「こうありたい自分」すなわち永遠、不可思議な恐ろしい力に肉薄し、それを地で生きることによって怒りの感情は薄れると言えます。が、永遠は神ではないが神につながっているなにかなので、そう簡単に近づけません。しかたない。永遠と「この自分」の落としどころを「とりあえず」決めて、そこから生きるしかありません。
つまりアンガーマネジメントとは、表層的なテクニックだけでは語り尽くせないということです。永遠という不可思議な恐ろしい力とひとり静かに向き合い、それが何なのかを自力でできる限り言語化すること。これが真のアンガーマネジメントなのです。
※参考
キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020
ひきこもりの根本原因とは?
1つは、「なりたい自分」になろうとするタイプであり、今一つは「永遠に向かって猪突猛進のごとく突っ走る」タイプです。この項では、「なりたい自分」になろうとする自分についてお話します。
なりたい自分になろうとする人は、「こうでしかない自分」を呪い、自分を変えたいと思います。しかし、なりたい自分になることができず、悩み苦しみ、最悪の場合、自殺に至ります。
なりたい自分、すなわち永遠に近づこうとするも近づくことができないというのは、たとえば以下のような生き様です。
芸術の神様に肉薄するかのような演奏をするピアニストになりたいと思うものの、こども音楽教室で幼児たちにピアノを教えるほどの力しかない女性がいるとしましょう。彼女は自分の才能のなさや不運に絶望しています。すなわち、なりたい自分になれない「なれなさ」に絶望しています。
しかし、偶然応募したピアノコンクールの一次選考に通過したと知るやいなや、彼女は元気になります。なりたい自分になれそうな気がして、再びなりたい自分に向かって努力します。
しかし、二次選考に落ちた知らせを聞くや否や、再び彼女は絶望します。なれなさの前に力なくうなだれ、半ひきこもり状態になります。
最終的に彼女は、芸術を諦めますが、その時、彼女は納得できる理由を探します。たとえば、親の介護をする必要が出てきて芸術どころではなくなった、とか。幼児にピアノを教えるのが楽しくてしかたがなくなったので、芸術ではない道を選択したなど、なんらか自分が納得できる理由や世間的に筋がとおりそうな理由を、彼女は探します。
あるいはこういうケースもあります。
なりたい自分になれないその「なれなさ」をよく知っている人の中には、あえて忙しいふりをする人がいます。すなわち、予定をびっしり入れる人がいます。
彼・彼女は、永遠が自分にもたらす絶望、すなわち永遠の凶暴さを見たくないのです。だから、現実生活をあえて忙しくし、見ないですむようにしているのです。永遠という邪悪なものに心を犯されてしまう危険を察知しているのです。賢明な打算を持っていると言えるでしょう。
以上の2つのタイプの人は、せっかく自分の心に永遠が宿っているということを知っているわけですから、絶望に陥った時こそ自分自身の心とよく向き合うことによって、生きづらさを解消させることができます。
むろん後者の女性がよく知っているように、永遠と向き合うことは危険を伴います。たとえば、単なる金儲け仕事がとてもバカらしく思えてきて家賃すら払えないようなお金しか稼げないという危険に陥る可能性があります。あるいは、テレビでよくやっている美味しいスイーツのお店やイケメン芸能人など、現実生活をおしゃれにPOPに彩るあれやこれやがとてもバカらしく思えてきて、周囲の人と話が合わなくなるという危険があります。
しかしこれは、タコになるかイカになるかの選択を迫られているとも言えます。他個か異化。すなわち、他人と同じように生きる、すなわち永遠に蓋をして生きづらさを抱えたまま生きてゆくのか、みずからの永遠の呼び声に正直に生きてゆくのか、いずれかを自分で選択する分岐点にいると言えます。
以上のような人のことを、キルケゴールは「自分自身であろうと欲しない人」と言っています。すなわち「生まれもったものを活かそうという発想ではなく、恣意的な「なりたい自分」を目指し、それになれない「なれなさ」ゆえに、ひきこもる人」だと言っています。
身に覚えはありませんか?
※参考
キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020
「思い通りにならないのが当たり前」と思えない人を精神分析すると・・・
世の中、思い通りにならないのが当たり前です、と言われても、ふつうは心のつらさは消えないですよね?
そういうアドバイス(のような説教)を他人に言われるときはきまって、世の中のなんらか理不尽なところにつまずいているときです。
子どもが幼稚園に入れなかった。日本死ね、みたいに。
で、どんどんツイッターとかで社会的な発言をしだす・・・・人もいますが。
しかしじつは、思い通りにならない社会、すなわち他者がイヤというより、世の中を思い通りに生きられていないこの自分がイヤだと思っているのです。
つまり、他人ではなく自分がイヤなのです。
なぜなら、どのような世の中においても、それなりに思い通りに暮らしている人がいるからであり、そういう人の存在を誰だって知っているから。
つまり、「思い通りにならない」と嘆いている人は、不器用な生き様の自分を抜け出して、要領よく生きている誰かになりたいと思っているということ。
そのことを、キルケゴールという思想家は、端的に、絶望と呼びました。
不器用な生き様のこの自分ではなく、要領よく生きているAさんのようになりたいと思う気持ちを、彼は絶望と名付けたのです。
絶望は葛藤がもたらします。
具体的には、心のなかのブラックボックス、すなわちキルケゴールのいう永遠、ラカンのいう反復強迫、夏目漱石のいう「不可思議な恐ろしい力」、芥川龍之介のいう「ただぼんやりした不安」と、現実社会を生きる自分の葛藤が生きづらさを産んでいます。
とすれば、ブラックボックスの中を少々覗いて、そこに入っているものを言葉にしてあげる必要が生じます。わたしたちは「なんか不可思議な恐ろしいもの」と言っても真に理解できないからです。なんかとは「なにかsomething」でしかないので、それが何なのかを具体的に言葉にしてあげる必要がある。
すると、思い通りにならない「自分」と世の中の折り合いがつくポイントが見えてきます。
世の中思い通りにならないのが当たり前、という(どうでもいい)説教はじつは、「永遠」と「べき論」の折り合いをうまくつけるために、心の非言語領域をがんばって言語化してね、ということなのです。
もちろん、説教している本人にその自覚は(おそらく)毛頭ないと思われますが。