今から2000年以上前、正確には紀元前380年に、プラトンは『饗宴』を記したとされています。その中にアリストファネスの話があります。それによると、大昔、男と女はオトコオンナという1つの生き物だったそうです。ちょうど今の男女が背中合わせにくっついている感じだそうで、したがって1体に手は4本、足も4本あったそうです。顔(というか頭)は2つあったそうです。それではお供え物の数が少なくて困ると言い出した神様がいて、その神様がオトコオンナを真っ二つに割った、すなわち男と女に分けたとのこと。
その結果、お供え物は倍に増えました。が、男は絶えず自分の半身である女を探し求めるようになりました。女も同様に、自分の半身である男を探し求めるようになりました。というのが、プラトンの『饗宴』に収録されているアリストファネスの話の概要です。
なぜ人は誰かと別れるときに痛みを感じるのか?
さて、その説に従うなら、私たちは自分の半身に出会ったとき、激しく恋焦がれ、惹かれ合い、ひとつになると言えます。実際にアリストファネスは「自分の半身に出会った者は驚くほど相手に親密さを感じる」と述べています(カギカッコ内要約。以下も同じ)。
また、「彼らは単に性行為をしたいという理由で惹かれ合うのではなく、彼らの魂はそれ以上の何かを求めて1つになろうとするのだ。その何かは言葉に表すことができない」とも書かれています。
以上のことから、「なぜ人は誰かと別れるときに痛みを感じるのか?」という問いの答えは、自分の半身と再び離れなくてはならないからだ(それが痛みを伴わないわけがないからだ)と言えます。
つまり、恋人とは「もうひとりの自分」なのであり、それは要するに「自分」なのであり、したがって別れとは、自分と別れることを意味する。だから「身を切られるように」痛いのです。
新海誠監督「秒速5センチメートル」
とくに10代から20代において、自分がなぜ相手にこうも惹かれるのか、自分でも言葉でうまく説明できないことがあると思います。「なんかさみしいから」付き合ったとか、「なんか性的魅力を感じるから付き合った」などと言おうと思えば言えるけれど、しかし、それでは十分言えていない――そんな感覚とセットで交際した人も多いのではないでしょうか。
そこにはじつは、偶然にも自分の半身と出会った喜悦があり、自分の半身と喧嘩する虚しさがあり、自分の半身と1つになれた歓喜があり、自分の半身と別れなくてはならない魂の金切り声があったのです。プラトンの『饗宴』に依拠するなら、そのように言えるでしょう。納得するか否かはあなた次第ですが、私は新海誠監督の「秒速5センチメートル」を見るたびに、アリストファネスの話を思い出します。
元カレを忘れられない人
以上のことからわかるように、元カレを忘れることのできない人というのは、元カレを自分の半身、すなわちもうひとりの自分としか思えない人です。たとえば、一見おとなしめの清楚系の優等生的な女性が、とてもやんちゃな男性を好きになることがあります。その2人が付き合って別れ、女性の方がいつまでも元カレを引きずっているとします。
その場合、彼女はやんちゃな彼のことをもうひとりの自分だといまだに思っている。だから忘れることができない。アリストファネスの話からは、そのように言えます。このことは、ジャック・ラカンの洞察したある法則に基づいて説明すれば、なんとなく納得のいく説明ができるように思います。ジャック・ラカンは2世代前の人の性格が遺伝的に表れてくると言います。つまり、皆さんはおじいちゃん、おばあちゃんが持っていた性格を引き継いでいるというわけです。
しかし、引き継いでいるといっても、身長の高さや鼻の高さ、丸さ、学力などのように、 100%すべてを引き継いでるわけではありませんし、また引き継がれていない性質もあると考えるのが一般的ではないかと思います。たとえば、おじいちゃんがお医者なので私も医者になるという高校生は、おじいちゃんから医者の素養と言いましょうか、頭の良さを受け継いでいます。しかし、おばあちゃんが持つお花やお琴が好きといった性質はあまり受け継いでいない。
そういったふうに、血(ブラッド)に濃淡があると見るのが一般的ではないかと思います。したがって、清楚系のおとなしめの優等生的女子が、やんちゃな元カレのことを忘れることができないというのは、2世代前のおじいちゃんおばあちゃんから引き継いだ血のうちで、比較的薄い血がやんちゃさである可能性が否定できないと私は思います。あるいは、ほぼ引き継がれなかったけれど、それがかつてそこに存在していた記憶はたしかに引き継がれている。だから、どことなくもの悲しく感じる――。
つまり、「もしかしから元カレのように生きられたかもしれない可能性」や「不在の存在感」に心が震えるのです。
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誰かと別れるときになぜ痛みを感じるのか?【心理学が回答できない心理学】
恋愛が楽しくなる「世界的な精神分析家」の言葉
たとえばツイッター(X)には精神科医による、恋愛指南、人生指南の言葉が溢れています。そこには例えば、「どんなつらいこともそのまま受け入れましょう。そうすれば怒りや悲しみといった負の感情にとらわれずに済みます」などと書かれています。
しかしそれは、みなさん百も承知のはず。しかし、どうしても負の感情にとらわれてしまう。だから例えば、「早く結婚したいのにあっと言う間に30歳になってしまった。ああ、悲し……」と思っておられるのではないでしょうか。
というわけで、今回は、世界的精神科医かつ世界的精神分析家かつ世界的哲学者であるジャック・ラカンの言葉を参考に、30代からの恋愛が楽しくなる方法について一緒に見ていきたいと思います。
鏡像現象
今回お届けする世界的精神科医の言葉は「鏡像現象」です。自分に欠けているものを相手に発見し、その相手と1つになることで「完全な自分」を想像し、その想像上の自分を愛すること。ラカンの鏡像現象は(多少の意訳はありますが)おおむねこのようなものです。
たとえば、指定校推薦で大学に進学したお利口さんかつ「空気を読む天才」の女子の中には、ものずごくヤンチャな男性を好きになる人がいますが、たとえばそれが鏡像現象です。彼女はお利口さんかつ「空気を読む天才」ゆえ、自分にないものを熟知しています。すなわち、他者の顔色をうかがうことなく、思うままに生きる生きざまが彼女には欠けています。
その欠けているものを持っている彼、すなわちヤンチャに生き(ているように見え)る彼に、ほぼ自動的に惹かれます。やがて交際が始まります。彼女は彼それ自身ではなく、彼と1つになったことによって脳内に生まれた「完全無欠のわたし」を愛します。これが誰にとっても、恋愛の本質だとラカンは言います。
他にもいるから大丈夫!
30歳も過ぎれば、人によっては「あの時のあの彼と結婚しておけばよかった」と後悔することもあるでしょう。しかし、そんな後悔は必要ありません。前を向いてGo! なぜならあなたは、彼それ自身を愛していたのではなく、彼と一緒にいることによって生まれた「完全無欠な自分の像=イメージ」を愛していたのであり、あなたの欠損を埋め合わせてくれる男性は他にもまだまだたくさんいるからです。例えばヤンチャで経済的にそこそこ裕福な男性かつイケメンって、他にもたくさんいますでしょう?
そう考えると、「どんなにつらいこともそのまま受け入れましょう。そうすれば怒りや悲しみといった負の感情にとらわれずに済みます」という言葉をすんなり受け入れることができるでしょう。あなたが逃がした「最高の」元カレの代わりは他にもいると分かれば、彼を取り逃がしたという「つらさ」を受け入れられるようになりますね。その必然の帰結として、「怒りや悲しみといった負の感情にとらわれずに済みます」よね?
結局のところ恋愛とは
結局のところ、恋愛というものは自分に欠けているものを相手に託す行為でしかないのです。小学生の頃から親の言いつけどおり真面目に勉強ばかりしてきたお医者が高卒のキャバ嬢に入れあげるというのは、彼女が自分にないものを持っているからです。なにも彼女が高卒だとバカにしてるわけでは決してありません。勉強せずやんちゃに遊ぶ、そんな生きざまを彼女は持っています。何らかトラブルがあってもさほど気にすることなく、「まあいいじゃん。今日は天気がいいから海に行こうよ」といって、ほとんど全裸のような小さなビキニの水着姿を浜辺にさらす。そんなかっこよさを彼女は持っています。お医者は思います。「あー、彼女のように生きられたらなあ」と。恋愛って要するにそれだけのことなんです。
なので、元カレに代わる人は必ずいるのです。「いない」と言い張る人だって、3年後どうなっているかわかりませんよ。
ちなみに、ひとりの人に欠けているものは1つだけではないので、いろんなタイプの人を好きになるケースもあります。例えば、恋多き女子というのは、自分に欠けているものをしつこく探し求める人です。
たとえば、一見おとなしめの優等生に見える女子が結婚し、子を設けて、そののちに不倫をするというのは、たとえば不倫相手に頭の良さを求めているのかもしれません。やんちゃに生きているその生きざまにを求めているのかもしれません。好きなことを好きなようにやってそれを仕事にしてるその生きざまを求めているのかもしれません。
いずれにせよ、相手のことが好きというより、自分の欠損を埋めることで自分の人生を自分に納得させるための行為なのです。
専門家が教える「愛を深める」ちょっとしたヒント
どんなに愛しあっても、愛する人が内側からどのように生きているのかは本人にしか分からないことです。いや、哲学的により厳密にいえば、本人だってそれを十分に言語化できないはずです。
例えば、長年にわたって女性のスカートの中を盗撮している男がいます。盗撮犯です。彼は何千枚という膨大な枚数の写真を撮ってもまだ何かを見たい、知りたい、と思うから、しつこく撮り続けます。そしてある日、逮捕されます。
これは哲学者としての私の仮説ですが、彼は女性のスカートの中が物理的にどのようになっているのかを知りたかっただけではないのではないでしょうか。それなら何枚かの写真を撮れば満足するでしょう。そうではなくて、自分が気に入った女性が内側からどのように生きているのかを(も)撮りたかったのではないでしょうか。しかし言うまでもなく、それは写真に写らないので、彼は飽きることなくせっせとシャッターを押し続けたのではないでしょうか。
優等生の女子をえこひいきする学校の先生
同じことが優等生の女子をえこひいきする学校の先生にも言えると私は思います。優等生の女子が書いた作文を何回も何回も読む先生を私は知っていますが、彼は幼児趣味があるのではなく、自分とは住んでいる世界がまるで違うと感じる、かつ自分が理想とする人格を持っているように見える女子が、内側からどのように生きているのかを知りたいのではないでしょうか。
村上春樹さんがある短編小説に、ビートルズのレコードを胸に抱え、ポニーテールを揺らしつつ学校の廊下を歩く女子のことがいまだに思い出されるというようなことを書いていましたが、それはおそらく、彼女が内側からどのように彼女の人生を生きているのかを知りたい(が、いまだに分からない。自分から遠くにある輝きのようにしか思えない)ということを言いたかったのではないかと私は想像します。哲学的にいえば、メルロー=ポンティの哲学に近いことを書きたかったのではないかと私は感じます。
愛を深めるちょっとしたヒント
パートナーの性格に惚れて結婚した人はきっと多いと思います。そういう人の中には、相手が内側からどのように生きているのかを知りたいと思っている人がおられるでしょう。しかし、何十年と一緒に暮らしてもそれは見えない。それどころか、日を追うごとによくわからなくなる。
他者が自分の人生を内側からどのように生きているのか。世界をどのように認識しているのか。それらは心理学では解明できないことです。たぶん唯一、相手の立場に立って、相手が内側からどのように生きているのかを想像することで、ようやっと少し分かった気になる。そういうことかもしれません。
いや、それでも、少し分かれば「もっと知りたい」と思うのが愛というものではないでしょうか。愛する人が内側から己の生をどのように生きているのか知りたい、と――。
愛の煩悶
ちょっと話が脱線するように聞こえるかもしれませんが、このへんが愛に関する限界ではないかと私は思います。
例えば、あなたは今、愛する人を目の前に、彼・彼女を愛することができる喜びを噛みしめているとします。その時、同時にあなたは、目の前の彼・彼女になることはできないわけですから、彼・彼女が内側からどのように生きているのかを知ることができません。知識として知ることができたとしても、目の前にいる愛する人が内側からどのように生きているのか、それ自体を知ることは不可能です。
つまり、愛に満ち溢れている素晴らしい体験というのは、別の見方をすれば、愛する人それ自体になることができないという苦悩を意味するということです。
もちろん、「私は彼を愛したいのであって、彼それ自体になりたいとは全く思わないのだけど」と言う人も当然いるでしょう。それはそれでまったくもっていいのだろうと思います。
しかし、愛がある閾値を超えた時、愛する人と一心同体になりたいと思う瞬間があり、例えばそういう時に、愛する人が内側からどのように生きているのかを真にわかる術はないという事実を前に、私たちはある種の絶望に打ちひしがれるのです。
専門家が教える「うまくいく夫婦関係」を今すぐ作る方法
今回は「文章の読解方法」を援用して、夫婦関係や恋愛を読んでみたいと思います。私は心理カウンセリングとは別に毎晩、高校生の読解の授業をしていますが(現代文、古文、漢文、小論文、英語)、高校生たちに対してなにか文句があるわけではありません。むしろ現代文を教えている先生方に言いたいことがあります。すなわち「主観を交えて読んではいけない」という脳の構造上不可能なことを高校生たちに強いてはいけない。具体的には以下です。
構造とはなにか
文章というものはすべからく構造を持っています。例えば、ある大学の小論文の入試問題は次のような主旨の論説文でした。「アメリカや日本などはしばしば『国際化』という言葉を使う。それらの国々は紛争地域に平和をもたらすことを目的としてその地域の国々に『国際化』を啓蒙しに行っている(ようにその著者には感じられる)。
しかし、紛争地域にもなんらかの宗教があり、人々の生活がある。すなわち、国際化という広く一般化された概念でひと括りにできない個別具体的なものがある」。このあとに、紛争地域における民族の具体例が書かれています。つまり、国際化というA:概念(=一般的なこと)と、B:人々の生活という一般化されえないもの、という対立構造を、この文章は持っています。
AとBの対立という構造をもとに読めば、おそらく誰でも、著者がどちらに重心を置いているのかが「見えてきます」。すなわち著者はBの一般化されえないものに軸足を置いている。つまり著者は、なんでもかんでも国際化するのではなく、個別具体的なものも考慮に入れたらどうか、と主張しているということが「見えてきます」。要するに、理性偏重主義ではなく少しは感性も取り入れたらどうか、と――。
第三の考え
さて、では恋愛における対立構造とは何でしょうか? 例えば、A:彼氏は年収1000万円。他方、B:私は年収240万円。こういった対立。わかりやすいですよね?では、その対立から「見えてくるもの」とは何でしょうか? 「お金と寝る」彼女の計算高さや生きるたくましさでしょうか?
たしかにそれもあると思います。しかしこの場合は、実際には、AとBの中間地点になにかあるケースが多いように思います。例えば、彼女は彼のお金が好きだがしかし、同時に精神的に頼れる父性のようなものを持っている彼も好き、とか。
AとBの中間になにかあるのではないかという考え方は、例えば、フランスの哲学者であるメルロー・ポンティが採っています。彼はモノとしての身体と「NOTモノ」である意識の中間に「身体性」を置きました。身体性というのは、ざっくり言えば、身体自体がなぜか生まれながらにして持っている「意識とは独立に動こうとする意思」のようなものです。
例えば、「今日こそは好きな人に好きと言おう」と決意したにもかかわらず、その人の前に立つと何も言えないというのは、意志薄弱なのではなく、生まれもった運動性(好きと言うという行動のために身体がすぐ動く・動かないという意味における運動性)が「なぜかその程度」だということです。なぜなら意識は「好きと言おう」と思っているからであり、身体は意志と身体自身の運動性の両方によって動かされるものだからです。
「理想」を下げたほうがいい?
恋愛がうまくいかない時、「私の計算高さが原因なのかも。もっと『理想』を下げたほうがいいのかも」と考える人が多いと聞きます。つまり、知らず知らずのうちにAとBの対立構造に依拠してものを考える人が多いようです。で、答えが出ないまま時が流れます。
そういう時はAとBの間にあるものを考えてみるといいでしょう。すると、例えば先に例示したように「彼の父性的なものに惹かれているのかも」とか、そういう「第三の考え」が存在することに気づくでしょう。対立するAとBの中間地点にあるものも大事。そう思える恋愛がちょうどいいのではないでしょうか。
あるいは夫婦生活。家事に協力しない夫に不満のある奥さんは、A:家事をしない夫、B:家事に追われて息つく暇もない私、という対立構造の中間に何を見いだしますか? 「家事に協力的ではない夫はホント最低だけど、子どもみたいなところがあるから、やっぱり私が守ってあげなくちゃ」とか、そういった第三の考えが生まれたらステキだと思いませんか? あくまでも一例ですけど。
キルケゴールの弁証法
ちなみに、上にみたAとBの対立から第3の道を模索するという考え方は、キルケゴールが採っています。キルケゴールはヘーゲルの弁証法を参考に独自の弁証法を提唱しました。提唱したというか、彼はヘーゲルの考え方が気に食わなかったのです。なぜなら、(ふつうに考えると)彼はへそ曲がりであり、好意的に考えると、彼はどこまでも誠実な男だったからです。
たとえば彼は、キリスト教を熱心に信仰する者は最もキリスト教を信仰していない者だと主張しました。一見して何を言っているのかサッパリわからないですよね?
彼を愛するとはどういうことか
彼の意見を恋愛にそっくり持ち込むと、「私は彼のことを愛しています」と言う人は、彼のことを愛していないとなります。彼のことを愛していると主張する人に、「いや、きみは彼のことを愛していないだろう」と言えば、烈火の如く怒るのは火を見るより明らかでしょう。
しかし、「じゃあ、彼の何を愛してるのだね?」となった時、その問いをとことん突き詰めていけば、結局は彼と一緒にいる自分が好きだというところに収斂する人が実は多いのではないでしょうか。
恋愛がうまくいくたった1つのきっかけ「心理学と哲学のちがい」
原稿料ほしさに「ハウツー」をでっちあげては、Yahoo!や小学館の「Menjoy!」など、数々のメディアにそれっぽいことを書いてきた私が言うのもなんですが、実は恋愛というのは、誰かと一緒に何かをすることによって進展するものです。したがって、マッチングアプリで恋人を探してもうまくいかないのは当たり前です。なぜなら、マッチングアプリでデータ上マッチした相手とはまだ何もしていないからです。そんな状態で駅で待ち合わせてご飯を食べに行っても、メシがうまいはずがない。
それよりか、大学生であれば、同じゼミの仲間として共に汗を流しつつ研究に励むとか、社会人であれば同じプロジェクトに関わって共にしんどい思いをするとか、そういったことをしたほうが恋愛に発展しやすいのです。
しかしそれでも、恋愛がうまくいかない人もきっと多いでしょう。そこで今回は、恋愛がうまくいくきっかけについてお話したいと思います。
人生を回しているものの正体
人生というものは予想外のことがガソリンとなって回っています。「まさかこんなことが起こるなんて思ってもみなかった」というようなことが、あなたの人生を回してくれているのです。
人生の一部である恋愛も同じです。一生懸命相手の年収や勤務先、学歴を調べ上げたところでどうにもならないのが恋愛です。それより、たまたま新幹線の隣の席に座った相手となぜか意気投合し、名古屋駅で降りてひつまぶしを一緒に食べた方がはるかに良い。
今の世の中は予測不能な事態を徹底的に排除しようとします。バスが3分遅れただけで怒る人がいるくらいですから、バスだって「安全をみて」便数を減らすわけです。人間ドックに行けば体中の状況を数値化され、少しでも異常が認められたら「再検査しましょう」と言われます。それがたとえ正常の範囲内における異常値であったとしてもです。
そのような社会からは言葉にできないものが捨象されます。反対からいえば、私たちは言葉や数字にできるものだけに囲まれて生きています。それが現代社会です。
心理学の業務外のこと
しかし恋愛は、完全に言葉や数字に置き換えることができない営為です。なぜその人のことを好きになったのか? 誰も十全に説明できません。それは心の不思議といっても過言ではないでしょう。
心というものは心理学で説明可能だと考える人が多いようですが、心理学はなぜある人のことを好きになったのかを完全に説明しません。そこを誤解している高校生が多いからか、大学のオープンキャンパスでは心理学の先生が心理学と哲学の違いについて説くことがあるそうです。
ある脳内物質が脳のある部位に働きかけた結果好きになったのだというような説明を、心理学はします。では、なぜその人を眼前にした時、ある脳内物質が出てくるのか? これを心理学は説明しません。それは心理学が悪いのではなく、そもそも心理学の業務外のことだからです。
恋愛の真実、実存の真実
その業務は実は、哲学が担っています。「AだからB、ゆえにC」というガチガチのロジックで固められた哲学もありますが、他方で、祈りとか思いといった、その発生事由がよく分からず、かつ完全に言葉や数字にできないものを対象とした哲学もあります。
なぜかはわからないけど、ある日ある時、あることが起こり、その結果、なぜか分からないけれどその人のことを好きになり、やがてあることをきっかけになぜか結婚し、その後たくさん喧嘩もしたけれどなぜか、ずっと結婚生活が続いているのよね。こういった関係のうちに、恋愛の真実、ひいては実存の真実があります。
心理学と哲学の違い
最後に、心理学と心理哲学の違いについて、少し専門的なお話をしますので、ご興味のある方はお読みください。
例えば、ある人のことを好きになる心の動きについて、心理学は科学ですから、脳のこの部位からこういった化学物質が放出された結果、脈拍が速くなり、息が浅くなり、頬が照るというような説明をします。つまり、人の身体を機械のように捉えます。機械という言葉が不適切であれば、いわゆるハードとして捉えます。
他方、哲学は人の身体をハードに対してソフトとして捉えます。脳のある部位からある化学物質が放出されるのはわかるけど、しかし、だからといって、なぜ彼女のことを好きになるのか? 例えばこういったところから哲学の話は始まります。
あるいは、好きになる対象は世の中にごまんといるのに――それこそ自分以外の全ての人は好きになる対象になりえるのに、それにもかかわらず、なぜ私は彼女のことを好きになったのだろうと考えます。そもそも彼女のことを好きになった私とは何なのか、好きになるとはどういうことなのか? そういったことをとことん追求するのが哲学です。
結婚しない若者はなぜ結婚しないのか
結婚しない若者が増えたのは女性にその理由があるとする見方があるそうです。すなわち、自分より年収や学歴の高い男性に女性たちが大挙し、それ以外の男性には見向きもしないからだ、とある著者は語っています。無論、この見立てに反論したい女性もおられるでしょうけど、私自身に赤貧の経験があるからか、なぜかしっくりくる論なので、どこで読んだのかは忘れましたが、よく覚えています。しかし、冷静に考えると、そういう傾向は昔からあるのであって、なにも今に始まったことではないでしょう。
さて、今回は哲学の見地から、結婚しない若者たちはなぜ結婚しないのかについて、一緒に見ていきたいと思います。
出口を知らない若者たち
結婚しない若者たちは自分の「外側」に出られないから、結婚しないのではなく、できないのだという仮説を、私は持っています。自分の外に出られない理由は親子関係にあります。
今や友だちのように仲のいい親子(主に母娘)は珍しくありません。そういう女子が時々、私のもとにカウンセリングに訪れます。彼女たちの特徴は、表面上はお母さんととても仲がいいというものです。しかし、心の奥底では近すぎる親子関係に生きづらさを感じている。他方、母親はといえば、母親がカウンセリングに来ることはまずありません。
したがって、さまざまな社会的事象や書物から推測するしかないのですが、簡単に言えば、親に病んでいるという自覚がないというのが、私の見立てです。極端な例を挙げるなら、親自身の夢を子に託すケース。子はそのことに生きづらさを感じるも、親になにも物申せない性格ゆえ、どんどん病んでいく。しかし母親は、子を「温かく見守る」のみ。こういうケースがあります。
図書館に行くふりをして性行為をする女子
例えば、親が子どもに「あなたは医学部に行ってお医者になりなさい」というケース。ややおとなしくて自責的な性格の子であれば、親の言うことを素直に聞きますから、親の言いつけどおり頑張って勉強します。しかし、やがて潰れていきます。
当アカデミーに3年にわたってお通いになられたある女性は、潰れ方がかなり過激でした。ちょっとヤバいなという時期を過ぎた頃、すなわち潰れかかった1年目の終わりくらいに彼女は、家庭教師の男性と恋に落ちました。それは親公認だったそうで、そこまではまあいいとしましょう。
2年目、彼女は「図書館で勉強してくる」と親に嘘をつき、風俗店でアルバイトするようになりました。なんかさみしいから性行為をしたいという気持ちが彼女にはあったそうです。また、これは心理コーチングの結果明らかになったことですが、彼女が風俗店で働くというのは、親に対する当てつけでもありました。当てつけとして風俗店で働いて長く続くはずもなく、彼女は3か月でそのアルバイトを辞めました。その後どうなったのか? マッチングアプリで性行為の相手を見つけては昼間から性行為をする女の子になりました。
私の知る限り、彼女はまだ医学部に合格していません。しかし母親は、医学部受験専門予備校にお金を払い続けているそうです。彼女は医学部に合格するつもりはないそうですが、親の手前、一生懸命勉強するふりをします。模試の結果をうまく改ざんし、親にそれなりに良い点数の結果を見せているそうです。その後、彼女がどうなったのかがわかりません。母親はまったく無反省であるというのは、たまに母親から送られてくるLINEからわかります(※本文から本人が特定されないよう、フィクションにしてあります)
親が病んでいる
閑話休題。自分の夢を過度に子に託す親は、それ自体ですでに病んでいるわけですが、そのことに気づいていません。このことは、何人かの精神科医も書物の中で指摘しています。親子揃って心療内科に訪れるケースは決まって、「うちの子は病んでいる」と親が主張する。子は黙っている。しかし精神科医からすれば、子は全く病んでおらず、むしろは母親の方が病んでいるので、母親の治療をしたい。このようなことを書いておられるお医者を、浅学な私ですら、2人も知っています。
自分のいいところを必死に隠す若者たち
以上のことから、結婚しない若者たちはじつは、親との関係に苦慮している、すなわち自分と親という檻の外に出られない。だから結婚しないのではなく、できないのだ、ということが言えるように思います。ちなみに私は、その檻から強制的に、勢いをつけて出ました。すなわち家出しました。その結果2回も結婚してしまいました。
哲学者の内田樹氏は、<哲学というのは「自分の手持ちの論理や今の世間の常識では語り得ないもの」について語る「自己超越」努力を要求します>と語ります。その言にしたがうなら、結婚できない若者は、自分と母親の「関係」という自分の「論理」や、世間の常識に縛られ、語り得ないものを語れない、かつ語れない自分を超えようと努力していない、あるいはどう努力すればいいのか分かっていないと言えます。
平たく言えば、結婚しない若者たちは自分のいいところを必死になって押し隠し、他者に合わせようと努力している。だから結婚しないし結婚できない。こういうことが言えるのではないかと思います。
世界的な精神分析家が教える「恋愛の本質」と「離婚の原因」
今回は恋愛の本質について一緒に見ていきたいと思います。キルケゴールからフロイト、ラカン、メルロー=ポンティへと流れる系譜を、私は勝手に敬愛をこめて「おちこぼれの哲学」と名づけていますが、そのおちこぼれの哲学を手掛かりにしつつ、世界的な精神科分析家であるジャック・ラカンの思想に恋愛の本質について見ていきましょう。
おちこぼれの恋愛
おちこぼれの哲学の始祖であるキルケゴールは、レギーネという深窓の令嬢を熱烈に愛しました。キルケゴールは27歳のとき、10歳年下のレギーネと偶然出会います。彼はレギーネを熱心に口説き、婚約します。しかし翌年、それをみずから破棄します。これだけでもじゅうぶん不可解なのに、キルケゴールは終生レギーネを愛し続けたのでした! レギーネは妙齢になって高級官僚と結婚しますが、人妻となったレギーネに、キルケゴールは、自分の新刊(自費出版)を自分が死ぬまで(享年42)送り続けたのでした。
簡単に言えば、ちょっと「病んでる」真面目なイケメンが、身のこなしのうまい「すべて」を持っているかのように見えるお嬢に恋するという、現代でもわりとありがちなパターンだったのです。もっと簡単に言えば、どうやっても不器用にしか生きることのできない男が、器用に生きている(ように見える)女子に恋する。そんな恋愛だったのです。
精神分析に見る恋愛とは
キルケゴールがこの世を去って100年ほどがすぎた頃、ラカンが「鏡像現象」という概念を発表します。自分に欠けているものを相手に発見してしまい、その相手と1つになることで「完全な自分」の「イメージ」を愛すること。これがラカンの鏡像現象です。
そのラカンの言にしたがうなら、キルケゴールの恋愛はまさに鏡像現象です。すなわち、不器用な生きざまの「オレ」が、この世をおおいに楽しんでいる(ように見える)お嬢の生きざまに「オレにないもの」を発見してしまい、「彼女と1つになれたら完全なオレになれる」と思い、彼女に熱烈に恋するものの、結局のところ「完全なオレ」とは想像上のオレでしかなく、ゆえにキルケゴールは完全な自分を終生追い求めた、と言えます。
お嬢、キャバ嬢、医者
と書くと、「キルケゴールって変わった人だねえ」と感じる人もいらっしゃると思います。しかし、そのことは私たちのまわりでもしばしば確認される現象です。
たとえば、親や学校の先生の顔色をうかがいつつ「お利口さん」としておとなしく育った女性が、自分とはまるで育ちのちがうヤンチャな男性に恋するケース。「お利口さん」はお利口であるゆえに自分に欠けているものを熟知しています。そう、心と身体がおもむくままに生きるヤンチャさが欠けています。それを持っている人、すなわちヤンチャな男性と1つになることで彼女は、「完全な自分」というイメージを抱くことができます。だから交際します。が、彼女が愛しているのは彼それ自体ではなく、完全な自分のイメージ、すなわち自分です。
あるいは、キャバ嬢にかなりハマる男性。私が見てきた限りにおいて、キャバ嬢にかなりハマる男性はマジメにコツコツ働く人が多いのですが、彼らはキャバ嬢に「自由さ」を見ています。たとえば、小学生のころから勉強ばかりしてきた医者がキャバ嬢にハマるケース。
彼は親の言いつけどおり勉強ばかりしてきたゆえ、ずっと不自由さを味わい続けています。医者になった今でも、自分の過去に納得できていません。そういう男性が、親もいないかのようなかっこうで「夜の蝶」として生活の糧を得る女子を見たら、「オレも彼女のように自由に生きたい」と思います。つまり、自分にないものを相手に発見すると同時に、彼女と1つになれたあかつきには完全な自分になれると思います(錯覚します)。だから彼は頑張ります。が、結局のところ、彼が愛しているのは完全な自己像という自分です。キャバ嬢は(なぜか)そのことがわかっているので、多くの場合、彼を手のひらの上で転がすのみ。
恋愛の本質とは
このことは男女逆パターンにも言えます。「わたしは頭が悪い」と思っているキャバ嬢が医者にハマるのは、彼と1つになることで完全な自分をイメージでき、そのイメージを深く愛することができるからです。というわけで、おちこぼれの哲学に見る恋愛の本質とは、まぼろしの自分を愛することだと言えます。
ちなみに、鏡像現象に依拠して離婚を語るなら、離婚とは自分に欠けているものを相手がもたらしてくれないと悟ったときに生じる現象だと言えます。あるいは自分に欠けているもがさほど気にならなくなった時に生じる現象だと言えます。この「さほど気にならなくなった時」というのが非常に重要だと私は考えます。すべての悩みはそれが気にならなくなった時、解消されます。いえ、正確に言えば、悩みそれ自体が気にならなくなったという現象を、私たちは「悩みが解決した」と言っているに過ぎないのです。
あらゆる物事は生生流転、すなわち変化していますから、今ある悩みがものすごく気になっていても、1年後にはまったく気になっていないなんてことはよくあることです。したがって、当アカデミーはというか、私は、あらゆる悩みを解決しますと謳っています。それは決して嘘ではないからです。
ただし、それをしようと思えば、悩みをまず問いの形にしてあげる必要があります。つまり、何かを消そうと思えば消す対象をちゃんと言語化してあげる必要があるということです。自分が何を消そうとしてるのかがわかっていない状況においては、何も消えないというのは、自明のことでしょう。モヤモヤとした形にならない悩みを、問いの形にしてあげること。そしてその問いについて、さまざまな方向から誰かと対話をしながら、すなわち新しい見方を得ながら検討すること。それを半年も続けていれば、たいていの悩みはやがて消えていきます。私たちの心はなぜかそういうふうになっているのです。
愛着障害?「かまってちゃん」は親のせいとは言い切れない
愛着障害とは一般に、子どもの頃から親との関係がうまくいかなかったことが原因で、さまざまな生きづらさを感じる状態だとされています。具体的には、親を憎む。親に過度にしたがう。つねに親の顔色をうかがう。恋人など他者との距離感がバグるなどの現象がよく語られています。ようするに、「親が原因で私がこうなった」というのがよく言われる愛着障害。
ところで、「ホントに親だけが原因かなあ」と言った人がいます。元祖心理学者であるキルケゴールです。
親ガチャにハズレた人
キルケゴールは「親ガチャ」にハズレた人として有名です。彼の父親に対する文句は、彼が書き残した膨大な日記のそこここに見ることができます。父親の具体的なふるまいを挙げてそれがイヤだと書いてある箇所もあれば、「父親=父権=権力の象徴」として社会批判につうじること記している箇所もあります。
さらに、驚くことに、母親に関して彼はほとんど何も書き残していません。膨大な数の日記と著作があるにもかかわらず、です。ある哲学者が言うように、彼は母親のことを心底侮蔑していた、つまり親ガチャに大きくハズレたと思っていた(だから語りたくなかった)のかもしれません。
と、ここまでだと、親ガチャにハズレた現代の私たちと似たようなものです。「親ガチャにハズレた→親を憎む→わたしは愛着障害です→恋愛も仕事もうまくいきません」というシンプルな話です。しかし彼は、「その先」を考えました。
『源氏物語』は愛着障害のお話か
彼は「その先」、すなわち「親ガチャにハズレたらどうして親のことを憎んでしまうのだろう」と考えました。この発想がじつは現代人にとって、というか特に日本人にとって「新しい」と言えるでしょう。
たとえば、『源氏物語』における光源氏は子どものころ母親を失くした結果、母親に似た女性を探しては女遊びをする、という話ですよね? 「母親ガチャにハズレた→えも言われぬさみしさが原因で下半身がゆるくなった→そんなわが身を憂う」。極端に言えば、このように『源氏物語』の大筋を理解している人もおいでではないでしょうか? つまり、親ガチャにハズレた「から」光源氏は不幸になったと理解している人もいらっしゃるのではないでしょうか。だから、キルケゴールの視点は新しいのです。
分かっているけど、つい・・・
親ガチャにハズレたらどうして親のことを憎んでしまうのだろうと考えたキルケゴールは、「永遠」という概念を提唱します。永遠とは神ではないが神につながっているなにかです。別の言い方をするなら、言葉では割り切れないなにかです。言葉、すなわち理性で割り切るなら、例えば「私は親ガチャにハズレたけれど、親子のマッチングは運でしかないので、ハズレたという現実を受け入れるしかない」と思うでしょう。
しかし、多くの人は何かが納得できず、光源氏のようにいつまでも「この世にいない理想の親」を探します。たとえば、ある女性はわざわざホストクラブに行って「理想の愛」を探します。あるいは、他人からはごくふつうの恋愛に見えても、じつは「理想の父親像」を彼氏にかなり投影しつつ恋愛をしている女性がいます。
いずれの女性も「親ガチャにハズレた以上、それを受け入れるしかない」と頭ではわかっています。そう説明すると一定の理解は示すのです。しかし「なぜか」まぼろしを追い求める。それは親が悪いというよりか、私たちの心に宿る永遠が、私たちになぜか「ありもしない理想郷」を見させるからだ、つまり永遠のしわざだ。キルケゴールはこう考えました。
自分を責めるか、自暴自棄になるか
永遠を提唱したキルケゴールはまた、かの有名な「絶望」という概念も提唱します。その絶望には2種類あると彼は言います。1つは、親ガチャにハズレたわが運命を受け入れられない自分を責める「弱さの絶望」。2つ目は、ハズレたけれどしかし、トコトン理想の親を探してみせると息巻く「反抗」。その究極の姿は自暴自棄な生きざまです。
両者に通底するのは「こんな親のもとにオレを生んだのは永遠のせいだ」という彼の考えです。つまり、親は子を選べないし、子も親を選べないわけで、したがって、しいて言えば、親子のマッチングは「神様ガチャ」でしかないと彼は理解したのです。だから親それ自体を憎むのではなく、その親のもとにこの自分を生み落とした永遠に対して反抗したのです。そこから先のお話はありません。彼は42歳の若さでこの世を去ったからです。一説には過労が原因と言われています。神様に反抗するって、けっこう体力を消費するようです。
「愛着障害/かまってちゃん」は親のせいとは言い切れない
タイトルに記した「愛着障害や『かまってちゃん』は親のせいとは言い切れない」というのはつまり、親によって生じたあれやこれやは、じつは究極的には、永遠のせい、すなわち私たちの心になぜか宿る「言葉では割り切れない何か」のせいだ、と言えるということです。では、どうすればいい?キルケゴールはハウツウを書き残してなので、こればかりは私たちで考えるしかありません。せっかくなので、キルケゴールが提唱した永遠概念に依拠して考えてみましょうか。
永遠とは何かというところから考えていた場合、それは要するに、言語化できない何かとしか言えませんが、しかし明らかに言えることは、私たちの心の構造というものは何らか言語化できないものを含み持っているということでしょう。永遠が具体的に何なのかよくわからなくてもしかし、心はそれを構造的に持っているということは明らかに言えるでしょう。
認めると視野が広がる
なのでまずは、あなたの心の中になんらか言語化できない存在が宿っているという事実をお認めになることをお勧めします。そのことは実は、そんなに難しいことではないはずです。
例えば小説は、そのことばかりを書いていると私には読めます。すなわち意識的行為ではなく、なぜかわからないけれどそういった行為をしてしまった、ということがしばしば、小説におて主題化されているからです。したがって、小説を読むことによって心に宿る未知の生物「X」がどのようなものが見えてくるどころか、そういったものが心の中に宿っているのだと納得できるでしょう。
そうすると次第に、物事を捕らえる視野が広くなってきます。例えば、私が愛着障害的なかまってちゃんになったのは、なにも毒親のせいだけではない、というようなことが見えてきます。そうなれば、あとのことは芋づる式に見えてきます。やがて、なんらか納得のいく人生になります。
アダルトチルドレンでも「いい彼氏」をつくれる
アダルトチルドレンとは、子どもの頃に親から受けたトラウマによって、大人になった今でも生きづらさを感じている人のことだといわれています。そのような人が彼氏をつくろうと思えば、そもそも「自分」にこだわりすぎるあまり、恋人候補と巡り会えなかったり、恋人ができたところで恋人に依存的になったりなど、さまざまな障壁があるといわれています。
では、アダルトチルドレンがいい彼氏をつくるにはどのようにすればいいのでしょうか。「親ガチャ」問題にもだえ苦しんだ哲学者であるキルケゴールの生きざまや思想と、それに続く精神分析の権威であるジャック・ラカンなどの思想、すなわち心理学が言及していないことを参考にしつつ、一緒に見ていきましょう。
トラウマとは覚えていない何かのこと
そもそもアダルトチルドレンという言葉は、自分軸とか自己肯定感と同じマーケティング用語です。その特徴は、世間の人々がなんとなく思っていることを言葉に置き換えているだけの実態のない「雰囲気言葉」だということです。
また、トラウマとはじつは、自分が忘れてしまっている過去のなんらかの出来事が誘発する心の傷というのが本当の意味です。たとえば、「お母さんに叱られながら育ったことがトラウマです」という用法はまちがっているということ。覚えている経験ではなく、覚えていないなんらかの経験こそがトラウマなのです。
さて、先に挙げた哲学者たちの生きざまや思想を私なりに解釈すれば、アダルトチルドレンというのは、「私は本当はこうしたい、こう生きたい」という気持ちを子どもの頃から親に否定し続けられたと思っている人(しかし、それが具体的にどの経験に依拠するのか覚えていない人)というほどの定義になるでしょう。
「そのままのあなたでいいんだよ」
そのようにアダルトチルドレンを定義した場合、アダルトチルドレンがいい彼氏をつくる方法はおのずと見えてきます。「私は本当はこうしたい、こう生きたい」という気持ちを受け止めてくれる人に出会いさえすればいい、と言えますよね? それが恋人候補の誰かであれ、会社の同僚であれ友だちであれ、スナックで偶然出会ったおじちゃんであれ、誰でもいいのです。「そのままのあなたでいいんだよ」と言ってくれる人に出会いさえすれば、多くの場合、私たちの魂は救われます。しかし、そういう人にすぐには出会えないでしょうから、ほかの方法を以下に一緒に模索しましょう。
ありのままの世界
キルケゴールは今から170年ほど前の人ですが、キルケゴール亡き後、フロイトがこの世に生を受けたり、精神分析の権威であるジャック・ラカンがさまざまな概念を発表したり、メルロー=ポンティが現象学に関する論文を書いたりするなど、キルケゴールの思想がさまざまに解釈されるようになります。
たとえば、フランス現代思想におけるビッグネームであるメルロー=ポンティの考え方を取り上げるなら、彼は「親が毒親だから子がアダルトチルドレンになった」という言い方は果たして正確なのでしょうか? と問うかもしれません。
というのも、彼は「ありのままの世界」を記述するにあたって、私たちが信じ込んでいる因果関係は本当に成立するのか? と考えたからです。多くの人は毒親を原因と考え、今の自分の生きづらさを結果と捉えています。しかし、その両者は「だから」という接続詞で本当に結びつくの?
神様のせい
と書いてもピンとこない人もおられるでしょうから、1つの見方を以下に提示しましょう。たとえば、ジャック・ラカンの言説を拡大解釈するなら、私たちの性格はおじいちゃん、おばあちゃんのそれを引き継いでいると言えます。
とするなら、毒親はあなたから見た曾祖父母の性格を引き継いでおり、あなたは祖父母の性格を引き継いでいることになります。つまり、親子は似た者どうしではないということになります。あなたと親が違うように、祖父母と曾祖父母も違いますから。違う者どうしが組み合わさってうまくいく家庭もあればそうではない家庭もあります。その違いをおそらく心理学は完全に説明できないでしょう。
もしそうであるなら、ようするに、運でしかないと言えます。つまり、神様がなぜか、あなたが生きづらくなるように親子のマッチングをした、と、こうなります。つまり、あなたが生きづらさを抱えているのは神様のせいだ、と――。
あなたの知らない世界
親のことを憎んでいるうちは「親が良くないから今の私は不幸なのだ」という見方しかできません。それがいいとか悪いとかといった話ではありません。神様は私たちの脳をどういうわけか、その程度にしか創っていないということです。
しかし、キルケゴールの生きざまや思想、ジャック・ラカン、メルロー=ポンティの思想などをもとに「可能性」を探れば、おのずと、アダルトチルドレンはどのようにすればいい彼氏に巡り会えるのか? という問いの答えが見えてきたしょう。すなわち、「あんな親だからこんな私になった」という考え方の外側に立てばいいのです。
このことをより具体的に言うなら、例えば、親の人生を知ることが結果的に、いい彼氏に巡りあう秘策だということです。例えば、自分の親のことを毒親と言ってる人は、なんらか直接的な「被害」を親から受けてきたはずです。例えば、子の意思を無視して親が強制的に塾に通わせたとか。そういった「許せない」経験をしてこられたでしょう。もちろんそれは、悲しいことですし、同情したくなることです。
親を親と認識できる時
しかし、そういった情緒的な話とはまったく独立に、親には親の50年間、60年間、70年間の時間、すなわち歴史があるという事実が確かに、存在します。親はどのような家庭環境で生まれたのか。どのような親に育てられたのか。小学生の時はどんな子どもだったのか。中学校の時はどのような子どもだったのか。姉や兄にいじめられてきたのか? それとも姉兄に頼って生きてきたのか? などなど。
親にもあなたと同じように、親の歴史というものがあります。これはいわゆる毒親問題に限ったことではなく、生きていく上において大切なことは、相手の立場に立って相手の事情を想像してみるということです。もちろん、毒親に何らかの実害を与えられ続けてきた人が、親の歴史を探ろうなんて思えないというのも理解できます。
しかし、ちょっと探ってみてもいいなと思った時、親の立場に立ってみてください。親はあなたの知らない時代に生まれ、知らない町で、知らない人たちと一緒に過ごして今日を迎えています。
あなたも同じです。つまり、全く違う経験をしてきた2人が、たまたま1つ屋根の下にいて、いがみあったり仲が良かったりするのです。そういう「事実」に目を向けた時、あなたの中の何かが瓦解する音を、あなたはその耳で確かに聞くことになるでしょう。
あなたがダメ男とつきあってしまう理由とは?
ダメな男と知っていて付き合ってしまう。で、なかなか別れることができない・・・・。
そういう女性は自分にないものを彼氏に求めている人です。
例えば、彼がやんちゃな性格で、パチンコ大好きでお酒も大好きで・・・・という破天荒な人の場合、その性格がまるまるあなたにないのです。
いえ、より厳密には、あなたはやんちゃな自分に蓋をして、隠してしまっている。その隠しているものを彼がのびのびと生きている。そこに惹かれているわけ。
つまり、彼氏と彼女の関係は、凸凹の関係なのです。
彼女は自分にないものを彼に求める。
彼氏もまた、自分にないものを彼女に求めているわけ。
だから、品行方正に生きている彼女が、やんちゃなダメ男と付き合うことになるわけ。
で、その本質は、ダメ男に惹かれる彼女のおじいちゃん・おばあちゃんの中の誰かが、やんちゃな性格だったというところにあります。
つまり、あなたは、やんちゃな性格を祖父母から引き継いでいる。
しかし、現実問題として、そのやんちゃな性格を表に出して生きることがはばかられる。だからそれに蓋をしている。だから、やんちゃに生きている男に惹かれる、というわけ。
ちなみに、僕のやっている心理アカデミーでは、上記のことを個々人にそって納得のいくまで説明しています。
しかし大事なことは、その先です。
すなわち祖父母の血を引いている自分、やんちゃな血を引いてもやんちゃに生きることができない自分を抱えたまま、現実生活の中で自己肯定感を高く持って生きていく実践です。
理論と実践を両輪として自己肯定感を高めていきます。
ちなみに、公認心理師の先生のカウンセリングを受けても自己肯定感が高まらないというのは、公認心理師の先生が実践まで面倒をみてくれないからです。
しかし、これは当たり前のことです。
公認心理士という国家資格は実践の伴走をする資格ではないからです。
婚活×自己肯定感!簡単に愛され女子になる方法
自己肯定感とは、「私が私でよかった」という気持ちです。
その気持ちをもてたとき、人は初めて自分を愛することができます。
そしたら不思議なことに、他人から愛される愛され女子に豹変します。人生が変わります。
では、どうすれば「私が私でよかった」と思えるのでしょうか?
世間では、嫌な自分を認めてあげようとか、自分を否定しないようにしよう、毎日日記をつけようなど、無理難題が言われています。
嫌な自分を認めることがどうしてもできないから、自己肯定感が低いというのに!
さて、私たちは2世代前の人、すなわち、おじいちゃん・おばあちゃんの性格のクセを引き継いでいるということが精神分析の世界でわっています。
つまり、おじいちゃんやおばあちゃんが持っていた成功法則や不幸になる法則を、私たちはまるっと引き継いでいるわけです。
なので、まずは、おじいちゃん・おばあちゃんがどのような生き様だったのかを知ることです。
例えば、ものすごく真面目で奥手なおばあちゃんをお持ちの方は、そのまんまの性格を引き継いでいるのではないでしょうか?
反対に、ものすごくモテて、おしゃれで遊び人だったおじいちゃんをお持ちの方は、そのような血を引いているのではないでしょうか?
誰にとっても祖父母は4人いるので、どの祖父母の血を濃く引き継いでいるのかはあなたにしかわからないことです。
しかし、 ともあれ、まずは4人それぞれの祖父母の成功パターンと不幸になったパターンを、まずは知ることです。
すでに祖父母がこの世にいないのであれば、誰かに情報を聞くとか想像してみるという方法しかありませんが、それでもとにかく祖父母の情報を集めることです。
そうすれば、やがて自分のイヤな性格を受け入れることができるようになります。
なぜなら、自分のイヤなところは絶対にイヤだし許せないと思っていても、例えばおばあちゃんも同じ性格を持っていたとわかれば、「おばあちゃんも私と一緒で不器用ながら一生懸命生き抜いてきたのね」と温かな気持ちになるでしょう?
じつはその気持ちが自己肯定感を根底から押し上げるのです。
祖父母の生き様を知ること、想像すること。
これが自己肯定感を上げる最も簡単な方法です。
ぜひ実践してみてはいかがでしょうか?
愛されたい人に愛される方法とは?
愛されたい人に愛される方法は1つ。
自分を愛することです。言い換えれば、自己肯定感を高くもつこと。「なんかさみしい」を消すことです。
自己肯定感の低い人は、「愛されたい人」と「あこがれの人」がイコールです。
つまり、自分にない能力というか、自分がとおい過去にどこかで失くした能力をもっている人に愛されたいと思っています。
たとえば、親のいいつけどおり勉強ばかりやってきた男の医者のなかには、キャバ嬢が3度の飯より好きな人がいます。彼にとってキャバ嬢は、自分と違いヤンチャで、セックスの相手に不自由しておらず、自由に生きており、親などいないようなかっこうで夜ごと異性とたわむれている人、です。
彼女の実態がそうではないとしても、彼はキャバ嬢をそう見ているのです。
つまり、彼は自分にないものをもっている人に愛されたいと思っている。
これは精神分析の世界では鏡像現象と呼ばれている現象で、べつに珍しくありません。ある種の女子がホストに入れあげるのと同じです。
つまり、自分の「欠損」を、相手をとおして「補完したい」と思う気持ちが、わたしたちにある以上、鏡像現象は自然発火的に起きるのです。このことにいいも悪いもありません。わたしたちの考え方のクセの1つはそういうものだ、というだけです。
で、問題は「ないものねだりの人」とは、自己肯定感が低いという点です。
なぜ自己肯定感が低いのか?
自分のルーツを忘れているからです。
キャバ嬢に入れあげる医者は、親のいいつけどおりに勉強するだけの人生でしたから、ホントは自分はどうありたいのか、自分にとってなにが人生の基盤なのかを「忘れている」。
その忘れていることを思い出すことによって、「愛されたい人」が変わってきます。その結果、「自分らしい相手」に「愛されたい」と思うようになります。ホストにしか興味のなかったキャバ嬢が、ある日をさかいに、地元の地味な男を好きになり結婚してゆくように。
自分のルーツを知ることで、誰だって愛されたい人に愛されるようになります。
恋愛がうまくいく方法とは?
恋愛がうまくいく方法は1つしかありません。
自分を愛することです。
自分のことが嫌いな人は、「この自分」を抜け出して、なんらか別の「なりたい自分」になろうとしています。
他方、彼氏は「そのあなた=今のあなた」が好きです。
「これ」がいいと彼氏は言い、「あれがいい」と彼女が言う。
これをすれ違いといいます。
が、たいていの人はセックスもあることですし、お互いが別のものを見ていることなど、さほど気にしません。やがて気になりますが、今はどうということもない。セックスで1つになれるとそれでOK。これが多くの人にとっての恋愛でしょう。
「この自分」でもまあいいか、という気持ちを、自己肯定感が高い状態といいます。
言い換えれば「べつに別の自分になどならなくてもいいや」と思える心の状態のことを自己肯定感が高い状態といいます。
その状態で恋愛すればわりとうまくいきます。
ではどうすれば、自己肯定感を高めることができるのか?
自分のルーツを知ることです。それも祖父母の生き様を知ることです。そのことにとって、自己肯定感は「おのずと」高くなります。
今のあなたには、毒親が嫌い、憎んでやる、など、いろんな思いがあるかもしれません。たしかに直接的には毒親によってあなたの自己肯定感は低いのだろうと思います。
しかし、じつは、あなたは、祖父母の考え方のクセや、幸せになるパターン、不幸になるパターンを受け継いでいるのです。精神分析の世界の定説はそう言います。