自己肯定感を高めるために、「ありのままの自分」を受け入れよう、としばしば言われます。
が、ありのままの自分とは何でしょうか?
怒りたいときに怒って、エッチした時にエッチする自分がありのままの自分でしょうか?
心理哲学的には、私たちは
(1)世界を色眼鏡で見てしまっている
(2)科学主義ゆえの偏見がある
という2つの理由のために「ありのままの自分」が見えないとされています。
すなわち、思い込みという色眼鏡をかけていることに自分で気がついていないがゆえにありのままの自分を見失っているのであり、数値化された科学的データを信じてしまっているがゆえに、ありのままの自分を見失っているということです。
ということは、世界を驚きをもって見ることができ、かつ科学的なデータが示す数値や言葉を一旦保留にして考えることができれば、ある程度は「ありのままの自分」が見えそうです。完全に見えなくても、ありのままの自分のアウトラインくらい取れそうですよね。
ところで、HSPという呼称があります。
生まれつき刺激に対する感受性や応答性が高い人の呼称です。
例えば、人の気持ちに敏感すぎるとか、光の眩しさに敏感とか、匂いに敏感とか、電車を待つホームにおいて大音量のアナウンスにかぶせて別のアナウンスが大音量で流れてくる、それに耐えれないとか、そういった人たちをHSPと呼ぶそうです。
さて、ここで問題です。
「私はHSPだ」と認識したら、人はどうなるのか?
たいていの場合、安心していったん話が終わります。
病名をもらったら安心しますよね。HSPは病名ではないけど、生きづらさの1つの原因だから、原因がわかって安心するでしょう。電車のホームの音が不快で仕方なく外出できなかったわたしは社会不適合者ではなくHSPだったのだと思って安心する人が大半でしょう。
しかし、その先に待っているのは、お薬を飲む対処療法か、ただ安心するだけの生活です。
しかし、じつは、ここから先に「ありのままの自分」を知るポイントがあります。
すなわち、「私はなぜ刺激に敏感なのだろうか?」という問いを隠してはいけないということです。つまり、事象が発している問いを隠してはいけないということ。
精神分析の世界においては、2世代前の人(すなわち祖父母)の性格を私たちは引き継いでいるというのがわかっているわけですから、祖父母の中の誰かもHSP的に刺激に敏感だったのではないか、という仮説が生まれます。
実際に4人の祖父母を調べたり思い出したりするうちに、もしかすれば、父方のおばあちゃんが戦前、美大を出ていたということがわかるかもしれません。
ありのままの自分というのは、そのようにして言葉や数値で隠されたものをひとつずつ丁寧に知っていくことによって、そのアウトラインをとることができるのです。
私はHSPだから。
私は不安症だから。
私は境界性パーソナリティー障害だから。
そんな医学的な名前に安心したら「ありのままの自分」なんて一生見えなくなります。
自分のルーツを探る旅の中で、これまで見慣れた世界が驚きをもって眼前に現れてきます。
科学の心理学は統計学です。じつは、統計に当てはまらないことにこそ、ありのままの自分が潜んでいます。
私たちはあまりにも科学を盲信してしまっているのです。だから多くの人は自己肯定感が低いのです。
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ありのままの自分を知る方法とは? ~HSPってなんぞ?~
トラウマとは何か? 対処法は?
ひと口にトラウマといっても、さまざまな種類があります。
ここでは、ごく普通のありふれたトラウマについて言及します。
さて、トラウマとは「個人で対処できないほどの圧倒されるような体験によってもたらされる心の傷のことだ」と一般的には説明されています。
しかし、わたしたちがよく口にするトラウマとは、要するに「本当はこうしたい・こうありたい」という気持ちを親によって踏みにじられた、その経験のことでしょう。
例えば、本当は、大学の文学部に進学したい。しかし、そのことを親に言ったら「文学部なんか卒業してどこに就職するの?」と言われ続け、親の声の方が大きいのでなんとなく文学部ではない就職に有利な学部(例えば経済学部とか法学部)を目指しているうちに、なんとなく心が元気でなくなって、気がついたらしっかり病んでしまっていて、ネットで「トラウマ 対処法」などとググっているような状態――。
私たちの心には、「自分でもなぜだかわからないけど本当はこうしたい・こうありたい」という気持ちが、ものごころついた頃から芽生えています。
その気持ちを踏みにじると心が元気ではない状態が容易に生れます。
そのことを多くの人はトラウマと呼んでいるようです。
さて、その対処法はとても簡単で、本当はこうしたい・こうありたいという気持ちを、まずは言葉にして発することです。
「本当は文学部に進学して小説家になりたい」と思っているのであれば、恥ずかしがらずにそれを口にすることです。
まずはそれができた時点で、30%ほどトラウマから立ち直れています。
その後は自分でその目標を達成するための環境をこしらえることです。
小説家を目指しているのでは生活できない?
いいえ。サラリーマンの傍ら、夜や休日に原稿を書き続け、物書き一本で食っていけるようになった人はたくさんいます。
親が子の「本当はこうしたい・こうありたい」という気持ちを踏みにじるには、それなりの理由があります。
例えば、先の例でいえば、「文学部を卒業しても就職口がないのではないか」という、無知に由来する心配だったりします。
そのことを、ことさら親の人格否定に使わないことが重要です。
文学部を卒業したのでは食っていけないという思い込みを持っていた(しかし実際には、文学部を卒業しても三菱UFJ銀行に就職している人もいれば、 Googleに就職してる人もいる)。ただそれだけのこと。
トラウマ、トラウマと騒ぎ立てると、問題がややこしくなって解決しなくなるのです。
わたしたちが一般に口にするトラウマとは、じつはこれだけのことなのです。
トラウマ、トラウマと騒ぎたてる人とは、トラウマにおかされている人ではなく、じつは親を憎む憎しみに縛られて苦しみもがいている人なのです。
それはトラウマとはまた別問題です。
複雑性PTSDのなおしかた
複雑性PTSDを持つ人たちは、自分の意志とは別に、真相の情動に動かされることがあると言われています。
また、その感情は、時に意識的な思考や願望とは逆行し、周囲に威圧的な印象を与えることがあるとも言われています。
なんとも難しそうな説明ですが、要するに心理哲学の方面から説明するなら、心の非言語領域である「永遠」に支配されている状態が複雑性PTSDです。
永遠とは、夏目漱石が言うところの「不可思議なおそろしい力」であり、芥川龍之介が言うところの「ただぼんやりした不安」です。
新海誠監督の「秒速5センチメートル」の中で、主人公のタカキは、この複雑性PTSDにおかされているのではないか? といったシーンが出てきます。
高校生くらいに「永遠」に心をおかされたタカキは、社会人になると転職を繰り返すようになります。やっとできた恋人とも深い関係を結ぶことができません。
部屋には安酒の空缶が何本も転がっており、習慣的にタバコを吸うキャラクターとして描かれています。
つまり複雑性PTSDというむずかしそうな病名は、じつは、心の非言語領域と言語領域の葛藤の末、非言語領域が心を支配してしまっている状態ということです。
例えば、夏目漱石の『こころ』に出てくる「先生」は、永遠に心をおかされて自殺してしまいました。要するに「先生」は複雑性PTSDだったのです。
この複雑性PTSDをどうにかしようと思えば、まず、自分の心の中にある非言語領域にどのようなものが入っているのかを知る必要があります。ようするに自分をおかしている敵をよく知ろうぜ、という、いわば当たり前のことをやってあげる必要がある。
永遠の中には、崇高な自分と邪悪な自分がいます。
崇高な自分というのは、例えば、中堅どころの高校に通う高校生が、高校生なりに学問における真理のようなものを志向するようになった結果、周囲の人を見下すようになる、怒りっぽくなる、「こんなレベルの低い学校に行きたくない」と言って不登校になる、といったようなことです。
つまり崇高な永遠が邪悪な永遠を呼び覚ましているということです。つまり、崇高さと邪悪さというのはコインの表裏、車輪の両輪なのです。
多くの人は、この永遠に蓋をして生きています。
見て見ぬふりをして生きています。
それを直視してしまえば、生きづらくなることは誰だってわかっているからです。
しかし、見て見ぬふりをしよう、蓋をしよう、と意思してもそれができない人もいます。
それは実力がないからできないのではなく、心の非言語領域、すなわち永遠というものはもともと、意思とはまったく独立に機能しているものだからです。
心の中の永遠を手懐けること、言い方を変えれば、「現実のこの自分」と「永遠」との折り合いをうまくつけること。
そのためには、人によっては職業を変えざるを得ないかもしれません。離婚せざるを得ないかもしれません。
心の問題は心の中だけで完結するものでなく、現実生活と深く結びついているからです。
非言語領域を言語化する。このことを、私の「自己肯定感を高めた人のためのオンライン心理学スクール」ではやっています。対話を通してしかできないから、スクールにおいてセッションを行っているわけですが、もしひとりでやりたい場合、永遠を具現化した思想を知るとやりやすいと思います。
例えば、フランスの精神分析家だったジャック・ラカンは、永遠を「シニフィアン連鎖のしつこさ」と呼びました。
フロイトは「死への欲動」と呼びました。
そういった確かな思想を手がかりに、自分の心の中の非言語領域を言語化してあげると、ある程度は複雑性PTSDが和らぎます。
双極性障害の治し方
むかしは躁うつ病と言われていた双極性障害。
その原因は、たとえば以下のように説明されています。
――双極性障害の原因は、脳内の情報伝達の乱れにあると考えられている。ストレスはきっかけにはなるが直接の原因ではない。その人が病気になりやすい性質であるかどうか、またはなりやすさの度合いと、ストレスなど病気のきっかけとなる要因の組み合わせにより発症するという考え方もあるが、未解明の部分が多い。(ドクターズ・ファイル)
さて、医者ではないぼくが心理哲学の方面から双極性障害の原因を語るなら、「今のダメな自分」と「こうありたい自分」のギャップが大きすぎるのが原因です。
躁の時、すなわちテンションが高い時は、「私はなりたい自分になれる」と思って、そこに向かってものすごく頑張ります。
しかし、自分でもわからないあるとき、今の自分の現状に目がいってしまい、「やっぱり私はダメだ」と思います。
その時、あなたの心はなぜか落ち込む。すなわちうつ状態になる。
これが心理哲学の方面から言える双極性障害の人の実態です。
この話のポイントは「なぜかわからないけど」にあります。
あなたはなぜかわからないけど、なりたい自分になれると思って、ものすごく努力する。
あなたはなぜかわからないけど、ある日突然、自分の実態、すなわち「この自分」に気がついてしまって、ものすごく落ち込む。
つまり、心理哲学の方面から見る双極性障害というのは、「なぜかわからなさ」すなわち自分を操っている何者か、未知の存在Xに、あなたの心が操られてしまっているという点にあります。
このことをおそらく日本で初めて発表したのは夏目漱石です。漱石は当時朝日新聞に連載していた新聞小説『こころ』の中で、なぜかわからなさを「不可思議な恐ろしい力」と表現しています。
その不可思議な恐ろしい力によって、「先生」は自殺に追い込まれます。
もう一人の主人公である「私」は、なんとなく不可思議な恐ろしい力を理解しようと努めるキャラクターとして描かれています。
他方、「先生」の奥さんは、不可思議な恐ろしい力にまったく気づかないキャラとして描かれています。
ぼくはそのように『こころ』を読解しました。
つまり、双極性障害を治そうと思えば、自分の心の不可思議の恐ろしい力、すなわちいまだ言語化されていない領域に何が入ってるのかを知り、それを少しずつ言葉にしてあげることが重要。
小説やうたの歌詞は、不可思議の恐ろしい力をとてもうまく言語化しているので、ぜひ参考になさってみてはいかがでしょうか。
あるいは単純に、就きたい職業につけていないことによって双極性障害が引き起こされているのであれば、生活を調整してなりたい職業につくというのも方法かもしれません。
この仕事に就きたいのにそうでない仕事に就いているという事実は、私たちの心の中にある謎の存在者Xに餌を与えているようなものですから、それだけでどんどん病んでいくのです。
というわけで、いまだ言語化されていない心の領域に気づき、それを少しずつ自分のペースで言葉にしてあげることによって、双極性障害は少しずつ改善されていく。
心理哲学の方面からこのようなことが言えます。
今日もお互い頑張っていきましょう。