ひとみしょうの人間関係論

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専門家が教える「人間関係を劇的に良くさせる」判断保留の法則

こんにちは。おちこぼれの哲学者のひとみしょうです。

最近は精神科医までもが自己啓発的な本を書くようになり、何が嘘で何が誠なのかさっぱりわからなくなりました。その混沌とした世界では、人間関係を良くする方法として「自分の行動を変えましょう」とか「相手の承認欲求を満たしてあげましょう」などということが言われているようです。

それらの方法がどこまで有効なのか、あるいは本当にそんなことができるのか、哲学を専門としている私にはよくわかりませんが、「判断保留の法則」は劇的に人間関係を良くさせます。


判断保留の法則とは

判断保留の法則とは善悪の判断を保留にすることです。例えば、ある芸能人が不倫したという報道を見聞きした時、「推しが不倫してガッカリした。最悪」と「判断」する人がいますが、その判断を保留にするのです。すなわち善悪という基準で考えることをいったん中止する。

すると、やがて「なぜ彼/彼女は不倫したのだろう」という問いが生まれます。問いを生もうと意思しなくても、おのずから心の中に問いが萌芽します。心理学や脳科学がどう言おうと、私たちの心はなぜかそのようになっています。

人間関係が悪化する時はきまって、この人のこういうふるまいがイヤだ「と判断し」ています。相手が自分にとってイヤなことをしてきたのだから、そう判断して当然だろう、とあなたは反論するかもしれません。だから、その「と判断する」ことを保留にするのです。つまり、事実を事実として「だけ」眺めるのです。


「人間ができている」お坊さんはなぜ人間ができている?

デカルト以来の哲学に依拠して語るなら、私たちの脳は理性と感性から成っているとされており、何かがイヤだと判断する時は感性が先立っている、つまり感情的になっている。こう説明することが可能でしょう。

しかし、デカルトのいう理性を、ちょっと神がかった存在によってもたらされた「普遍的な私」が普遍的なことを思考する、その思考作用のことだと解釈した場合、イヤだと判断するというのは理性と感性の対立ではなくなります。単純に、超越者のことを一時的に忘れている(あるいはそもそも知らない)から、何が善で何が悪なのかを判断してしまう、といえます。

ほら、超越者と日々会話しているお寺のお坊さんがときどき、テレビなんかで、達観したコメントをしていることがありますでしょ? あれは「テレビカメラの前でなんらか仏教っぽいことを言わなくてはいけない」と意思しているのではなく、そのお坊さんが四六時中、超越者とともに生きているからなのです。つねに普遍的な生を志向しているからなのです。

だから、ああいう人は善いも悪いも言わないのです。たとえ相手が殺人犯であっても、どのような理由で人を殺めたのかをどこまでも誠実に知ろうとし、その事情の奥に潜むなんらか超越的な心の作用を仏教に依拠して理解しようとしているのです。

お坊さんほどではないにせよ、相手がなぜそういったふるまいをするのかと自問自答するところに、人間関係を劇的に良くするきっかけが潜んでいます。

なぜ怒るのですか?

ちなみに、犯罪者の立場に立って「なぜ彼彼女は罪を犯したのか」と考える態度をとっただけで「お前はなぜ犯罪者の肩を持つのだ」と言う人がいます。何を考えているのかさっぱりわかりません。最近は狭隘な性格の持ち主の人が多いようです。

相手の立場に立ってものを考えるというのは、常識というかマナーというか、思いやりというか、普通のことであると私は思うのですが、それができない人が非常に多い。そうしている人を非難する人も多い。最近そのように感じます。

これは「毒親問題」についても同じです。毒親のことを憎んでいる人に対して、「親の立場に立ってものを考えてみたらどうか」と言うと、ものすごく怒ります。怒らない方は二度と連絡してこなくなります。

現代人はなぜこうも善悪の判断をより早いタイミングでつけたがるのか、私にはよく分かりません。分かるように何かを考えればいいのでしょうけど、今のところある一定以上深く考えたいという気持ちがわきおこってきません。

ただ、私たちの心の中には何らか善悪で判断する機能があり、その機能はほかの機能よりも非常に強く働くのだなと思います。それがなぜなのかを哲学したいと思うのですが、哲学をするフック、すなわち問いがつくれないので、いつまでも心の中に付箋を貼ったままです。

嫌いな人と無理に仲良くしてしまうのはなぜ?

脳科学も、自己啓発も、心療内科医も、「嫌いな人と無理に仲良くしなくていいです」と言います。


しかし、自己肯定感の低い人はなぜか、嫌いな人にも好かれようと思って無理に仲良くします。

その結果、自己嫌悪に陥り、さらに自己肯定感が下がります。


ところで、なぜ自己肯定感の低い人は嫌いな人と無理に仲良くしてしまうのでしょうか?


アダルトチルドレンという言葉を使ってカウンセリングをしている心理職の方々は「子どもの頃から毒親に好かれようとしてきたその態度が消えてないからだ」というような説明をしますが、果たして本当でしょうか?

本当に毒親が原因なのでしょうか?


私はちがうと思います。


嫌いな人と無理に仲良くしてしまうのは、嫌いな人に「理想的な自分」を見ているからです。



例えば、威圧的なものの言い方をして軍隊のように部下を動かす上司が嫌だという人のことを例にとってみましょう。



彼・彼女は、そんな上司が嫌いですがしかし、他方で、「私も竹を割ったような物の言い方をして人をすぱすぱと動かしたい。人に嫌われることを恐れることなく、目標を達成するために軍隊の優秀な曹長のような性格を持ちたい」と思っているのです。



自己肯定感が低い人は絶えず逡巡しています。AにするかBにするか、ずっと迷っています。


つまり、軍隊式の上司とは正反対の性格です。



わたしたちは他者のふるまいを見て自分にないものを補完しようとします。


自己肯定感が低い人はたえず、自己肯定感が高そうな人(物事をすぱすぱと割り切っている人・・・)を見て、自己像を補完しようとします。


欠損のある自分からはやく逃れたいからです。

ほら、おとなしい人がある日突如として、威圧的な人に豹変することがあるでしょう?


それは彼・彼女が気が狂ったからではなく、ずっと威圧的な人を見てあこがれることによって自己像の欠損を埋めていたからなのです。


ずっとあこがれていた人のふるまいと同じことができて、彼・彼女はうれしいのです。

ちなみに、おとなしめのひきこもりの人が、ある日暴れ出すのもおなじ理由によります。

イヤな上司にもう悩まない方法とは?

たとえば、マウントをとってくるイヤな上司とは、じつはさみしい人です。

家に帰ると居場所がないどころか、奥さんに「また飲み会?」「また残業?」とグズグズ文句を言われ、言い返せない人。


あるいは偉そうにすることでしか、自分の存在価値を見いだせない人。死後、地獄に落ちて、閻魔様から自己啓発セミナーを受講させられる人。


さて、そういう「残念な人」にすら、あなたはマウントをとられてしまっている。


なぜ?


あなたの自己肯定感が低いからです。より具体的には「強い自分」に向けて自分を「調教」しているからです。認知行動療法とかを使って。

その「下から上を見上げる感じ」とか「生き急いでいる感じ」が表に出ているので、そこをちょこっとつつくとマウントをとれる、と踏む人が世の中にはいるのです。


つまり、「自分らしくない」ことをあなたはやっている。だからマウントをとられる。自分に「上げ底」をつくることに夢中で「自分を生きていない」その「生きてなさ」を他者に利用されている。


ということは、自分のルーツを知り、それを生きることでマウントをとられなくなるばかりか、そういう人から離れることができます。


マウントをとる上司も自分のルーツを知りません。知らない者どうしが「オレのほうがより知らない」というのを必死になって隠そうとしている。これがマウントの構造です。


自分のルーツとは、祖父母にあります。わたしたちは祖父母の考え方のクセや、不幸になるパターンを受け継いでいる――精神分析の世界の定説です。


祖父母の生き様を知る。思い出す。想像する。
そうすることでおのずと自己肯定感が上がります。


とはいっても、そう簡単に思い出せないので、自分の幼少期から現在までを誰かに語りつつ、言い間違いや言いよどみを指摘してもらいつつ、知っていく、思い出すのです。たとえば当アカデミーではそれをやっています。

哲学は生活に還元できる
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