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専門家が教える「ネコになりたい時」に知っておくとヒトとして生きる元気が再び湧いてくる言葉3選

ネコになりたいと思う時はきまって、現実世界のあれこれが煩わしく思える時です。そういう時に知っておくと、ふたたび人間に戻って頑張ろうと思える言葉を3つご紹介しましょう。引用元はすべて、キルケゴールの『死に至る病』(鈴木祐丞訳/講談社/2017)です。

人間とは精神である。

キルケゴールのいう精神とは、永遠なものと繋がっていることを意識している心のことです。永遠なものとは、中島義道先生の解釈によると、神ではないが神に繋がっている何かです。

例えば、野球の下手な少年が、大リーグで活躍する野球選手になりたいと思う。これはその少年の心に宿る永遠が彼に見せる夢です。この少年に限らず私たちは、合理的にというか、普通に考えたら荒唐無稽としか思えないことをしばしば夢想しますよね? それはあなたの心に宿る永遠が、あなたに見せている何かなのです。

ネコになりたい人は、永遠をぼんやりと知っているものの、それをあまりに情緒的に捉えているのでネコになりたいと思います。それは別に悪いことではありません。しかし、ネコ的にファンシーな永遠と、厳格な永遠の両方が、あなたの心に宿っているという認識をお持ちになってはいかがでしょうか。後者を意識することがあなたの心に真の平安をもたらすとキルケゴールは書いています。

絶望は人間の自己を食い尽くすことができないということ、それこそがまさに絶望における矛盾の苦悩であるということから、人間うちにある永遠なものを証明することができるだろう。

ネコになりたいという非合理的な気持ちは、永遠があなたにもたらす気持ちだと先に述べました。その永遠は目に見えないものであり、かつ非科学的なものですから、「そんなものはない」と頑張って反論する人もいます。

そういう人に向けてキルケゴールは、絶望とは死にたくても死ねないという事実、すなわち矛盾それ自体のことであるので、それを根拠に、私たちの心には永遠が宿っていると言っています。

ネコになりたいと思う時、すなわち現実から逃れたいと思う時、その気持ちの源、すなわちキルケゴールのいう永遠と会話することで、あなたに悩みをもたらす現実の人間関係などが些末なことに思えてき、より高い次元の精神で人間界を生きられるようになります。

ちなみに、そのことを怠れば、以下のことが起こります。

永遠は(…)きみを絶望のままに、きみの自己にかたく縛りつけてしまうのだ!

ここでいう自己とは恣意的な自己、すなわち永遠なものに気づいていない自己のことです。つまり、心に宿る永遠を崇高なものだと知らない人は、永遠なものがあなたに伝えようとしている人生の意味や使命に気づかないばかりか、それゆえ好き勝手な「なりたい自分」に向かって生きることになり、結果、「なんか寂しい」「なんかうまくいかない」と思うに至り、その結果「ネコになりたい」と思うのだとキルケゴールは言っています。

いかがでしょうか。

「精神」というものを知らない人がほとんどだとキルケゴールは言います。つまり、「ネコになりたい」という気持ちは、精神のことをよく知らないがゆえに抱く感情だということです。

心に宿る永遠と対話することによって、ネコになりたいという「夢」は、なんらか別の、使命を伴った崇高な「目標」へと昇華するのです。

人はなぜわかりやすいものを求めるのか「心と精神は別」

わかりづらい説明を聞くと私たちは不快感を覚えます。時にはイラっとしさえします。例えば、大学の講義において、何を言っているのかサッパリわからない先生の話を聞くのは、誰にとっても苦痛であるはずです。つまり、わかりづらいものは私たちに「不快」をもたらし、わかりやすいものは私たちに「快」をもたらします。

この事実は昔から哲学の業界でも言われ続けてきたことであり、とくだん目新しいことではないように思います。

しかし、昨今はその風潮が急加速しているように見受けられます。例えば、会社で「もっとわかりやすく資料をまとめろ」と上司に言われてうんざりしたことのある人もいらっしゃるでしょう。「これ以上どうわかりやすくしろと言うのか」。学校で生徒に「わかりやすく説明してください」と言われて、イラっとしたことのある先生もおいででしょう。「きみ、辞書というものを引きたまえ」。

というわけで今回は、人はなぜわかりやすいものを求めるのかについて、「現代的に」考えてみたいと思います。

恥ずかしいこと

1つには、「よくわからないものをどうにか解読しよう」という姿勢を持たないことは「恥ずべきこと」だという社会的な風潮が薄れてきたことが原因ではないかと私は思います。ほんの30年前、私が高校生の頃はまだ、何を言っているのかさっぱり理解できなくても、難解な本を読み通すことが「ステイタス」でした。今でこそ私は哲学を材に好き勝手なことを恥ずかしげもなく、全国の人々に向けて書き散らしていますが、高校生の私は哲学のテの字も知らなかったので、カントやバタイユではなく、教科書で知った小林秀雄の何冊かの著作を苦痛に悶え苦しみながら通読した経験しかありません。しかしともあれ、そうしたことが「いいこと」であり、仲間に胸を張って誇れることでした。そんな時代でした。

しかし今や、そういった風潮はどこを見渡してもありません。難しいことやよくわからないものを苦しみながら飲み込むなんてことは「やらなくていいこと」という風潮が社会を覆い尽くしました。わからないことから逃げることは恥ずべきことではなく、わかりやすく説明しないヤツが悪い、という風潮になりました。

なぜそういった風潮が幅を利かせることになったのでしょうか?

私の適職の探し方

私は「心と精神は別なのだ」という考えを多くの人が持たなくなった、あるいはそういった考えが存在することに気づかなくなったからではないかと思います。精神という「よくわからないもの」が「自分の体内に現にある」と謙虚に認識していれば、同様によくわからない授業内容に対しても謙虚になるはずだからです。「自分の体内にあるものが形を変えて外に出ているだけか。苦痛だけど謙虚に耳を傾けようか」。

事実、『夜と霧』でつとに有名なヴィクトール・フランクルがどこかに書いていたと思いますが、心と精神は別物です。心とは一般的ななんらかを感じるものです。他方、精神というのは、神に繋がるなんらかを感じるものです。それは崇高な気持ちを私たちにもたらします。したがって、「私がこの世に存在している意味」とか、「私の使命」とか「私の適職」といったものは、精神のことをよく知らないとその答えが出ないのが常です。

よくキャリアコンサルタントが適職の探し方として「手はじめに自己理解を深めましょう」と言います。しかし多くの人は、表面上の自己理解は得られても、そこから考えが深まりません。その必然の結果として、キャリアコンサルタントが想定するほどの指導効果が生まれません。その原因は、精神が何であるかを知らないからです。

私に捨象された「て」の意味

私は大人に対しては毎日、心理コーチングやカウンセリングをしています。高校生に対しては、国語と英語教えています。みなさん、わかりやすい説明を私に求めてきます。時には「ここまで説明したのだから、あとは自分の頭で考えたらどうなのか」と思うこともあります。しかし、そこはやはり商売ですから(!)、時にうんざりしながらも、とことんまで噛み砕いて説明します。

ある日、ある生徒さんが、助詞の「てにをは」の「て」とはなんですか? と私に尋ねました。私は次のように答えました。「私は朝起きて、歯を磨いて、学校に行って……」という感じで、「て」とはand、すなわち等位接続詞だと説明しました。もちろん「て」には他にも意味がありますが、「わかりやすく説明しろ」ということでしたから、多くを捨象してそのように説明しました。その翌日、その生徒さんの妹さんにも授業をしてくれないかとお母様から連絡がありました。まあ、そういう時代なのです。

仕事、恋愛、子育て

わかりやすさは、とりわけ「こころ」の領域において、精神を見えなくさせてしまう、そういった危険をはらんでいます。心の問題は心理学にその解決を求める人が多い時代です。精神科医に薬を処方され、臨床心理師に気付きを与えられ、行動の変容を促される。それはそれでいいのだろうと思います。

しかし、私たちの「こころ」は太古から「それがすべて」ではないようにできています。つまり、心と精神は別です。そのことを理解するのに私たちは、ヴィクトール・フランクルのように文字通り死と隣り合わせの壮絶な経験をする必要はないはずです。わかりやすい説明は何を捨象しているのか? ひとりひとりがそう洞察することにより、個人の生活、すなわち仕事や恋愛や子育て、親子関係などが良くなることはもとより、社会全体がよりよい方向に成熟するのではないでしょうか。

朝日を浴びてセロトニンを出してもポジティブにならん! ~心理学の謎と哲学のいろは~

朝日を浴びるとセロトニンが出ます。したがって、うつっぽい人や考えがネガティブな人は早起きして朝日を浴びよう! そうすることで前向きな考え方になります。こういった考え方をみなさん、1度はネットなどで読んだことがあるでしょう。

しかし、実際にうつっぽくなり、何をやっても脳がネガティブな考えに支配されるようになると(1)そもそも早起きしたいと思えなくなる(2)早起きして朝日を浴びてもポジティブな考えにならない、ということが起こります。

その時、人々は(1)自分なりに自己啓発などの方法を試みる(2)メンタルクリニックで薬をもらう、のいずれかをやるのだそうです。他にも何かをやっている人がいるのでしょうが、私のもとにカウンセリングに訪れる人はおおむねそのいずれか(あるいは両方)をやっているようです。

親を亡くした人に薬は有効か?

例えば、親を亡くしてうつっぽくなった人に薬は有効なのでしょうか? 

セロトニンを誘発させる薬はセロトニンを誘発させるのでしょうから、それを飲むとセロトニンが出てくるのだろうと思います(飲んだことがないのでわからない)。しかし、セロトニンが出てきたからといって、親を亡くした哀しみが癒え、ポジティブ思考に切り替わるのでしょうか。

私にはそうは思えません。

あるいは、意に染まない学校や会社に毎日行くしかない人にとっては、生きていることそれ自体が精神的地獄のようなものでしょうが、その塞ぎきった気持ちはセロトニン誘発剤を飲むと雲散霧消するのでしょうか。

私にはそうは思えません。

しかし、なぜか「もっと薬を増やしてください」とお医者に言う人がいるらしいのです。で、薬の副作用が大変なことになる直前くらいに、私のもとにカウンセリングに来ます。「お薬いらずの体質に変われますか?」

科学で割り切れないもの

なにもそういった人たちを非難しているわけではありません。私のもとにもっと早く来いと言いたいわけでも、決してありません。

ある種の人はなぜ、そこまで心理学を信じ込むのか、不思議に思うのです。

親を亡くした哀しみ。これは科学では割り切れないものです。それをなぜ科学の塊である薬で「治そう」とするのでしょうか。意に染まない理不尽な環境というのはなんらか数式で表せるものではありません。それをなぜ薬でどうにかしようとするのでしょうか。謎。

親を亡くしてどうして私はこんなに哀しいのだろう。

意に染まない環境にいることでどうして私は死にたいと思うのだろう。

それらの「なぜ」を問うところから、すなわち自分の心と対話するところから、おちこぼれの哲学は始まります。

自分なりに納得のいく答えが見つかれば、問いそれ自体が消滅して悩みは消えます。

心理学の謎

他方、心理学に頼ってどうにかなった人は別にそれでいいのですが、どうにもならなかった人は、自分をさらなる地獄へと突き落とします。心理学が提唱する「枠」から「すら」外れた「おちこぼれ」だと自分のことを認識します。その結果、極度に落ち込むか、自暴自棄になるか。ようするに精神病棟に入院することになります。そこに救いはないように私は思います。

しかしそれでも、心理学は多くの人にとって「すがる対象」になっているように見えます。そのことが私にとっては不思議なのです。おそらく「こうすれば、ああなる」というわかりやすい説明を心理学はするからなのかもしれません。

しかし、あなたは今「こうしても、ああならなかった」から悩んでいるのではないですか? つまり「科学の外」にあなたの悩みはあるのではないですか?

おちこぼれの哲学は誰かに何かを強制するものではないので、これ以上のことは言いません。しかし時には、「なぜ」を考えた方が健康にいいのではないかと思います。

人間の精神は誰もが知っているとおり機械ではないので、「ガソリンが切れた→給油する」みたいに「うつっぽくなった→セロトニン誘発剤を飲む」だけでは済まないようにできているからです。

精神科医が言及しない「心の謎」~ユーミンと井上陽水さんのうたの歌詞を参考に~

おそらく多くの人は「早起きして太陽の光を浴びればセロトニンが出てきて鬱っぽさから解放される」という精神科医の言うことをある程度信用していると思います。

しかし、それでは心が晴れない時があるのも、事実です。そういう時、高額な自己啓発セミナーに参加する人もいます。「心理学という科学では割り切れない何かが心の中にあるのではないか」と疑問に思い、何らかの本を読む人もいます。

今回は、心理学が科学であるゆえに扱わない心の不思議についてお話したいと思います。恋愛や子育て、親子関係に悩んでいる方はとくに、ご参考になさってみてはいかがでしょうか。

ユーミンの「ひこうき雲」

例えば、ユーミンの「ひこうき雲」の歌詞には、空に憧れる「あの子」が出てきます。「あの子」がなぜ空に憧れているのか、まわりの人は分からない。おそらく本人だってよく分かっていない。しかし、「あの子」は空に憧れ、何も恐れることなく空へ旅立った。

おおむねそういった歌詞ですが、なぜとりとめもないものに心惹かれるのか? 

これは歌詞にあるとおり、誰にも分かりません。なぜか分からないけど、心というものはそういったよくわからないものを有しているとしか言いようがありません。

模試の結果を改ざんする高校生たち

あるいは、模試の結果を改ざんする高校生がいます。3人の予備校や塾の先生から、そういう生徒がいると私は聞きました。私自身も2人、そういう生徒を知っています。

彼(女)は、親から「医学部に行け」としつこく言われ続け、かつ親に反抗する術を持っていません。だから模試の結果を改ざんし(もちろん「いい方に」改ざんし)、親が納得するものをでっち上げます。

彼(女)は倫理観を持っているので「改ざんは善くない」と分かっています。しかし、倫理を超えた何者か――彼(女)の心に巣くう何者かが「改ざんしてでも親の気持ちにそぐうものを親に見せろ」と言います。

そこには当然、葛藤がありますが、彼(女)は倫理を超えた何者かの言うとおりにふるまいます。

倫理を超えたなにか

ユーミンの歌詞なら「自殺は善くない」という倫理。高校生の例なら「改ざんは悪だ」という倫理。それは誰だって知っていることです。

しかし、倫理――言葉という一般化されたツールで言い表せ、かつ他者と共有可能なものを超えた何者かが、私たちをふるまいを決定する時があります。

そのことを井上陽水さんは「決められたリズム」という歌にしていると私は感じます。

その歌の歌詞はすべて受動態で書かれています。「起こされた」とか「叱られた」「渡された」とかと受動態で書かれています。

しかし、誰に起こされたのか、誰に怒られたのかまでは書かれていません。親に起こされ、学校の先生に叱られた。直接的にはそう読めます。

しかし、歌を聴くと即座にわかることですが、そんな「小さな」世界観を井上陽水さんは歌っているわけではない。

おそらく、「倫理という、言葉で言い表せ、かつ他者と共有可能なものを超えた何者か」が、歌の主人公を起こし、叱った、ということでしょう。

じつは私たちが知っていること

つまり、あなたの人生を外側から、かつ内側から支配している何者かが、あなたの心の中にはいるということです。

今回はユーミンと井上陽水さんの歌を取り上げましたが、歌詞というものは「どうにもならないこと」を書くのが常です。「どうにかなること」は、それを実際にやればよく、それは別に歌う必要がないからです。

「彼に会えなくて寂しい」と歌うのなら会いに行くとよい。しかし、彼は死んでしまってすでにこの世にいないから「歌うしかない」。これが歌の基本です。

私たちは酔っぱらった時、しばしばカラオケに行き、なんらか身体的かつ精神的快感を得ますが、それは倫理という「言葉で言い表せ、かつ他者と共有可能なもの」を超えた何者かと、束の間、対話することが「気持ちいい」と感じるからではないでしょうか? 

なぜそれが気持ちいいのか?

私たちは昼間は隠しているだけで、「科学では解明不可能ななんらかの力に支配されつつ生きている」ことを、じつは知っているからではないでしょうか。

「本当のこと」を「王様の耳はロバの耳」的に、防音室で絶叫したい。誰かと共有したい――そんな欲求を、私たちはじつは持っているのではないでしょうか。

じつは心はこんな構造をしています

心は目に見えないよくわからないものではありません。じつは構造をもっています。構造というのは「どのようになっているか」ということです。

たとえば、ものすごくインスタ映えのする芸術的なショートケーキを見たとき、「どんなふうに作られたのかわからない」と思うことがあります。しかし、そのケーキをよく観察すると一番下にスポンジがあり、その上にカスタードクリームがあり、その上にミルクチョコレートのムースがあり……という感じで、構造が明らかになってきます。すなわち、どのように作られたのかが見えてきます。


心もおなじように、その構造がわかれば自分で心を作ることができるようになります。すなわち、「なんかさみしい」を排除して、あるていど、自分なりに納得のいく心を作ることができるようになります。


さて、心は3つの要素からできています。欲求、べき論、永遠、の3つです。


欲求というのは皆さんよくご存知のとおり、食べたい、寝たい。お金が欲しい、といった気持ちのことです。


べき論というのは、「こうあるべき」という考え方のことです。たとえば、「わたしは彼氏にとってよき彼女であるべきだ」という気持ち。「子どもにとってよき親であるべきだ」「会社の一員としてよきスタッフであるべきだ」などといった気持ち。高校球児は丸坊主であるべきだ、女子高生は放課後にセックスに励むのではなくしっかり勉強するべきだ、など、日本人はなにかと「べき論」が大好きですが、それは日本人特有のイヤな考え方であると同時に、人間に共通の心の作用なのです。


それら以外のもの、すなわち欲求とべき論以外のものを永遠と呼びます。
欲求もべき論もすべて言葉で表すことが可能です。「もっとたくさん寝たい」「もっと出世したい」「わたしは親の期待に応えて東大に行くべきだ」など、欲求とべき論はそのすべてを明確に言葉で表すことができます。


他方、永遠はそのすべてを言葉に表すことができません。

たとえば、彼氏がいるのになんかさみしいという感情。「なんか」というのは「何なのかわからないもの・こと」という意味です。つまり、なんかさみしいという言い方以外では表現のしようのないもの、すなわちそれ以上言語化しようのないものです。


それを「ただぼんやりとした不安」と形容した人がいます。芥川龍之介です。


――自殺の理由を新聞はあれこれと書き立てるけども、僕の場合は、ただぼんやりした不安だ。なにか僕の将来に対するただぼんやりした不安があるのだ――


彼は「或旧友へ送る手記」にこのように記しています。


芥川龍之介なんてわたしに関係ないと思いますか? いやいや、あなたの心もきっと、100年前の人とおなじような動きをしているはずです。


彼氏も家族もいるのに、夜ベッドの中で、なぜか茫漠とした不安に襲われたことがありませんか? 


彼氏とこのままつきあって結婚したいと思いつつも、なぜか将来に対するぼんやりとした不安が立ち湧き、その気持ちの処理に困ったことはありませんか? 


彼氏がいるのになぜか無性にさみしくなってマッチングアプリでやる相手を探したことはありませんか?


ともあれ、心は、欲求、べき論、永遠の3つの要素で構成されているのです。


※参考
キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020

悩みとは葛藤のこと

先の項では、心は3つの要素からできているとお話しました。すなわち欲求、べき論、永遠の3つです。この項では、その3つはどのような関係にあるのかについてお話します。


どのような関係にあるのか?


葛藤している関係にあります。


欲求とべき論の葛藤。欲求と永遠の葛藤。べき論と永遠の葛藤。この3つの「葛藤が心」です。具体的に見ていきましょうか。


まず欲求とべき論の葛藤について。
たとえば、ダイエット中に無性にアイスクリームが食べたくなるケース。食べたいという欲求と食べるべきでないというべき論が葛藤しています。これは誰もが体感的に理解できますよね。


おなじことが不倫にもいえます。「次こそは不倫にならないように」と心に誓っても、また不倫をしてしまう人が世の中にはいますが、そういう人は心の中で不倫すべきではないというべき論と永遠とが葛藤し、その結果、それでもなぜか不倫をしてしまうということなのです。


いや、そうではない! 不倫は悪だ! と、いまお感じになった方は、太字にしてある「なぜか」をよく味わいつつ再読願います。あなたの善悪や好悪の話をしているわけではありません。


次に、欲求と永遠の葛藤についてみていきましょう。
たとえば、親のことが大好きでずっと実家暮らしを続けたいという欲求をもちつつも、「音楽がわたしを呼んでいる」となぜか強く思いウイーンに音楽留学した、という子のケース。

ちなみにこの場合、子の永遠を理解できる親とそうではない親が存在します。前者は子のことが「なにも言わなくてもわかる」のに対し、後者はいつまでも「あんなに愛情をかけて育てたのに薄情な子だ」と言います。


あるいは、誰かに認めてほしいという欲求をもちつつも、いつも認められる直前にすべてを台無しにするかのごとく「べつに」なんてそっけない態度をとってしまう人のケース。本人は認められる直前まで必死に頑張るんです。しかし、心の中の永遠という魑魅魍魎とした存在がなぜか最後の最後にちゃぶ台をひっくり返してしまう。


あるいはこういうケースも。親に勉強しろとうるさく言われ、イヤイヤ勉強している頭のいい子はいつの時代にもいますが、そういう子の中に、大学入試本番でなぜかついうっかり解答欄を1つずつズラしてマークしてしまった人がいます。「正しくマークしていれば合格した」と、わたしは本人から聞きました。


意図的にずらしたのではないか? といぶかしく思う読者もおられるでしょう。しかし「なぜかついうっかり」なんです。親のために合格すべきというべき論と、本人にもそれが何なのかよくわからない永遠、すなわち謎の存在「X」が葛藤した結果、おそらくは無意識のうちに、最後まで解答欄を1つズラして解答していることに、試験終了を告げるチャイムを聞くまで気づかなかった。


最後に、べき論と永遠の葛藤についてみていきましょう。
たとえば、彼氏にとっていい彼女でいるべき、と思いつつも、彼と会えないとき無性にさみしくなってマッチングアプリでやる相手を探してしまうケース。


これはなにもだらしない下半身ゆえではありません。「いい彼女でいるべき」というべき論と永遠とが葛藤して、永遠がべき論に勝った(勝ってしまった)ということです。


この場合の永遠は具体的に何なのでしょうか? 
さまざまありますが、たとえば、生きていること自体がなんかさみしいと思う気持ちです。彼氏の存在とはまったく独立に、本人の心もちとして、生きているだけでなんかさみしいと思う、そういう人が世間にはいるのです。


以上3つの葛藤において重要なのは永遠です。そいつがいなければ不倫にならずにすんだ。そいつがいるばかりに親の期待にそむく結果になってしまった。つまり、永遠があるからわたしたちは「なんかさみしい」と思ってしまうのです。


欲求もべき論も完全に言葉にできます。寝たい。食べたい。恥ずかしくない生き様であるべきだ。ほら、完全に意味のとおる言葉にできるでしょ?


そこに永遠が加わるからヤバイことになるのです。
寝たい。だがしかし、なんかさみしい。そういった葛藤を抱えたまま寝てしまえばいいものを、ベッドの中でスマホを握りしめてマッチングアプリを開く。さみしさを消してくれそうな相手を探してDMを送り、週末に会う約束をとりつけるまでDMの応酬。実際に週末に会ってセックスしたら、やっている最中はなんかさみしい気持ちが消えてくれた気がするものの、やり終えたら罪悪感やら後悔やらがいっしょくたになって、わけのわからない気持ちが押し寄せてくる。つまり永遠がどっと押し寄せてくる。そしてまた葛藤がはじまる……。


わたしたちの漠然とした悩みはすべて、永遠に由来しています。具体的には、永遠と欲求、べき論が葛藤することに由来しています。

というわけで、次項以降では永遠について具体的にみていきたいと思います。

※参考
キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020

「なんかさみしい」が生まれる場所とは?

前項では、「なんかさみしい」という気持ちは永遠がもたらしているということについてお話しました。この項では、永遠とは具体的に何なのかについてお話します。

まず、ちょっとむずかしい(?)お話から。
永遠とはキルケゴールが頻繁に使った言葉で、いうなれば「神ではないが神につながっているなにか」(中島義道氏の解釈)です。


その永遠を、フロイトは「死の欲動」と言い表しました。ラカンという精神分析家にして哲学者は「反復強迫」と言い表しました。わたしたちの心の中には自分の意思でコントロールできない何者か「X」が棲みついており、それをキルケゴールは永遠と呼び、フロイトは「死の欲動」と呼び、ラカンは「反復強迫」と呼んだのです。


簡単にいえば、自分の意思でコントロールできないもの「X」に、わたしたちは操られているということ。たとえば「片思いの彼に今日こそは告白しよう」と心に誓っても告白できないのは、その存在者「X」のせいであり、あなたが意志薄弱だからでもなければ、あなたがネクラだからでもないのです。


あるいは、あなたが中学も高校も大学も就職もすべて、「2番目に希望したところ」にしか入れなかったのは、あなたの努力不足が原因なのではなく、謎の存在者「X」が「そうさせたから」です。


この謎の存在者「X」を夏目漱石は『こころ』のなかで「不可思議な恐ろしい力」と呼んでいます。


ひとりの女性を、同時に、2人の男が好きになった結果、「先生」がその女性をゲットすることに成功します。それを知った「Kくん」は自殺します。その後、「先生」は「不可思議な恐ろしい力」に「お前はなにをする資格ももたない男だ」と言われます(というか、言われているような気になります)。


つまり、べき論と永遠が「先生」のなかで(これまで以上に)葛藤するようになるのです。もっとしっかり働いて生活費を得なければ、と「先生」が固く心に誓うたびに「不可思議な恐ろしい力」は「お前にその資格はない」「お前な無能でバカなやつだ」などと言うのです。今でいう「自責的で自己肯定感が低い状態」です。


そんなウツっぽい状態を漱石は「牢屋」と表現しています。とりとめのないものと現実的なものが心のなかで葛藤する状態を経験したことのある人は「牢屋」のくるしさがよく理解できると思います。ようするに、どこかに行きたくても行けない、その「見えない鎖」を解く術すらわからない状態。だから「先生」は、最終的に「死ぬしかない」と思うのです。


これら一連のことを漱石は、「たった一人で淋しくって仕方がなくなった」状態と書いています。ようするに「なんかさみしい」が『こころ』のテーマなのです。


「なんかさみしい」は永遠がもたらす気持ちです。すなわち、謎の存在者「X」がもたらす気持ちです。言語化不可能な気持ちがもたらす気持ちです。つまり、どれだけ意思を強くもって「今日も明るく元気に!」なんて言ったところで、そんなものは何の役にも立たないのです。なぜかはわからないけれど結果としてそうなったということをわたしたちにさせるものが永遠なのです。


なぜかわからないけれどカッとなって子どもに八つ当たりしてしまった?


あ、それ、永遠のしわざです。


なぜかわからないけれど、恋人に「別れよう」と口走ってしまった?


あ、それも永遠のしわざです。


なぜかわからないけれど、酔っぱらって電車内で女子のケツを揉んでしまった?


あ、それも永遠のしわざです。


世間では酒に酔っていた痴漢に対して、酒を飲んだことを考慮に入れて刑罰を決定すべきか否かという議論がときになされますが、ケツを揉みたくなるまで酒を飲んだのは本人の意思でありつつも、本人の心のなかの存在者「X」、すなわち御しがたいアイツ、すなわち永遠のせいです。


しかしだからといって、


「いやー、なんかさみしくなってケツ触ったんでしょ? 無罪、無罪!」


なんてことを言う裁判官はいません。法律の世界は「すべてが言葉」だから、永遠という完全に言語化不可能なものは捨象されるのです。


※参考
キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020

自分の無意識を知る方法とは?

無意識って、フロイトの論理を少し知っている人からすれば、今や覚えていない幼少期のなんらかの経験のことであり、それがなんらか魑魅魍魎なことを引き起こす、とか、なんかわけのわからないものだと思っているのかもしれません。

がしかし、べつに魑魅魍魎なものではありません。


無意識は私たちの目の前に現れています。

たとえば、いつも同じ失敗をして人間関係が切れる、というかたちで、私たちの前に顕現しています。

たとえば、最初は「いい人」として相手と接して、やがて「いい人」を演じるのに疲れ果て、ある日突然相手に悪態をついて疎遠になる、とか。そしてそれが「毎回」同じように繰り返され、その結果、わたしは友だちがいない、という「かたち」で――。


あるいは祖父母同様、わたしも兄弟の血がうすい――なぜか知らねど兄弟と疎遠だ――という「かたち」で。


あるいは、性欲に毎回負けてつい風俗に通い、その結果、40歳を過ぎても貯金がないという「かたち」で――。


あるいは、男を「ATM」として利用して自分は経済的繁栄をおさめるも、気づいたらなんかさみしいと思ってしまうという「かたち」で――。


つまり、「最初に無意識あり」ではなく、ある現象が無意識に存在しているわたしたちの考え方のクセや不幸になるパターンを「示唆している」のです。

哲学は生活に還元できる
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