ネコになりたいと思う時はきまって、現実世界のあれこれが煩わしく思える時です。そういう時に知っておくと、ふたたび人間に戻って頑張ろうと思える言葉を3つご紹介しましょう。引用元はすべて、キルケゴールの『死に至る病』(鈴木祐丞訳/講談社/2017)です。
キルケゴールのいう精神とは、永遠なものと繋がっていることを意識している心のことです。永遠なものとは、中島義道先生の解釈によると、神ではないが神に繋がっている何かです。
例えば、野球の下手な少年が、大リーグで活躍する野球選手になりたいと思う。これはその少年の心に宿る永遠が彼に見せる夢です。この少年に限らず私たちは、合理的にというか、普通に考えたら荒唐無稽としか思えないことをしばしば夢想しますよね? それはあなたの心に宿る永遠が、あなたに見せている何かなのです。
ネコになりたい人は、永遠をぼんやりと知っているものの、それをあまりに情緒的に捉えているのでネコになりたいと思います。それは別に悪いことではありません。しかし、ネコ的にファンシーな永遠と、厳格な永遠の両方が、あなたの心に宿っているという認識をお持ちになってはいかがでしょうか。後者を意識することがあなたの心に真の平安をもたらすとキルケゴールは書いています。
ネコになりたいという非合理的な気持ちは、永遠があなたにもたらす気持ちだと先に述べました。その永遠は目に見えないものであり、かつ非科学的なものですから、「そんなものはない」と頑張って反論する人もいます。
そういう人に向けてキルケゴールは、絶望とは死にたくても死ねないという事実、すなわち矛盾それ自体のことであるので、それを根拠に、私たちの心には永遠が宿っていると言っています。
ネコになりたいと思う時、すなわち現実から逃れたいと思う時、その気持ちの源、すなわちキルケゴールのいう永遠と会話することで、あなたに悩みをもたらす現実の人間関係などが些末なことに思えてき、より高い次元の精神で人間界を生きられるようになります。
ちなみに、そのことを怠れば、以下のことが起こります。
ここでいう自己とは恣意的な自己、すなわち永遠なものに気づいていない自己のことです。つまり、心に宿る永遠を崇高なものだと知らない人は、永遠なものがあなたに伝えようとしている人生の意味や使命に気づかないばかりか、それゆえ好き勝手な「なりたい自分」に向かって生きることになり、結果、「なんか寂しい」「なんかうまくいかない」と思うに至り、その結果「ネコになりたい」と思うのだとキルケゴールは言っています。
いかがでしょうか。
「精神」というものを知らない人がほとんどだとキルケゴールは言います。つまり、「ネコになりたい」という気持ちは、精神のことをよく知らないがゆえに抱く感情だということです。
心に宿る永遠と対話することによって、ネコになりたいという「夢」は、なんらか別の、使命を伴った崇高な「目標」へと昇華するのです。